北京·胡同窯変

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第248回《寄り道編》浅草寺(前)·麗しきキツネに出会った。



2020年2月上旬から21年10月上旬まで東京に滞在した。その間にマスク着用,手洗いがすっかり身に付いた。


テレビニュースで人出の激減している東京の観光地を紹介していた。たとえば浅草の仲見世。例年ならば多くの観光客であふれ活気ある場所だが、テレビ画面から眼に飛び込んできたのは、人の往来の少ない、ひっそり閑とした雷門や仲見世だった。


不要不急の外出は控えましょう。感染するのも遠慮したいが感染させるのもイヤだ。あれこれ思案の結果、びくびくしながら浅草寺に出かけた。2021年1月25日のことだ。




雷門。

創建は天慶五年(九四二),平公雅(たいらのきんまさ)寄進と言われる。前年,安房国太守であった公雅が、武蔵国への配置転換を祈願したところ、願いが吐い寄進したそうだ。


門の正面向かって右に祀られているのは「風神」、左は「雷神」。そのため「風雷神門」と呼ばれる。通称「雷門」。



門の裏側には向かって右に「金龍」,左に「天龍」が祀られている。金龍は仏師菅原安男、天龍は彫刻家平櫛田中作。以上の四神は浅草寺の護法善神として、伽藍守護·天下泰平·五穀豊穣の守り神とされているそうだ。



上の写真では見えないが,雷門と大書された提灯の裏側に「風雷神門」と書かれている。


“私は、現今(いま)の下谷(したや)の北清島町(きたきよしまちょう)に生まれました。嘉永五年二月十八日が誕生日です。その頃は、随分辺鄙(へんぴ)なむさくるしい地であった。江户下谷源空寺門前(げんくうじもんぜん)といった所で、大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。”


こう語るのは、彫刻家の高村光雲。記事中の嘉永五年とは江户末期の1852年だが、光雲さんはその十三年後の慶応元年の浅草大火に遭遇している。


“私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有(うゆう)に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に烧けてしまったのです。”(「光雲懐古談亅万里閣書房、1929年。「幕末維新懐古談亅岩波文庫、1995年。)


光雲は懐古談の中で大火の様子をくわしく語っているが、風雷神について次のように書いている。


“名代の雷門は烧き落ちましたが、誰か殊勝な人があったと見え、風雷神の身体は持ち出すことは出来なかったが、御首(みぐし)だけは持って逃げました。それが只今(ただいま)、観音堂の背後の念仏堂に確か飾ってあると思います。これはその後になって、門跡前の塩川運玉(しおかわうんぎょく)という仏師が身を造って修理したのであります。”


ちなみに現在私たちが目にする雷門は、浅草大火から100年ほど後の1960年(昭和三十五年)に松下電器創業者、松下幸之助の寄進によって再興されたもの。雷門と大書された大提灯も松下さんによって奉納された。


光雲によれば、大火による消失以前の雷門には「魚がしとかしんばとか書いた紅い大きな提灯が下がって何んとなく一種の情趣があった」そうだ。


仲見世。

テレビの画面で見た通り,案の定、人の往来は少なかった。シャッターをおろしている店さえあった。この時午後4時頃。



上の写真の右、若い男女が何やら土産物を物色中だが、当日このような人の姿を見かけたのは貴重な体験だったと言ってよいかも知れない。


犬猫用品·安立屋さん




豆柴のぬいぐるみをついつい買ってしまう。



光雲さんが浅草大火以前の仲見世の樣子を語り残してくれているのが嬉しい。


“雷門から仁王門までの、今日の仲店(なかみせ)の通りは、その頃は極(ごく)粗末な床店(とこみせ)でした。屋根が揚げ卸しの出来るようになっており、縁と、脚がくるりになって揚げ縁になっていたもので、平日は、六ツ(午後六時)を打つと、観音堂を閉扉(へいひ)するから商人は店を畳んで帰ってしまう。後(あと)はひっそりと淋しい位のものでした。”


床店ではどんな品物が壳られていたか?


“両側は玩具屋(おもちゃや)が七分通り(浅草人形といって、土でひねって彩色したもの、これは名物であった)、絵草紙、小間物(こまもの)、はじけ豆、紅梅烧、雷おこし(これは雷門下にあった)など、仁王門下には五家宝(ごかほう)という菓子、雷門前の大道には「飛んだりはねたり」のおもちゃを壳っていた。蛇の目の傘がはねて、助六が出るなど、江户気分なもの、その頃のおもちゃにはなかなか暢気なところがありました。”


いたって簡便な造りの床店、紅梅烧、雷おこし、五家宝、そして絵草紙に雷門の前の大道で壳られていたという、「飛んだりはねたり」の玩具。光雲さんの目が捉えたこれらは皆、江户時代の産物で、江户時代そのものではないか。


やがて時代は明治となり、床店は仲見世から姿を消すことになる。そのかわりに出現したのは欧風で堅牢、具体的には煉瓦造の店铺だった。明治18年(1885)のことだ。


『東京風俗志』(上卷、明治三十二年十月二十八日)で平出鏗二郎(ひらでこうじろう)は次のように書いている。おそらく明治20年代後半の仲見世の様子ではないかと思われる。


“仁王門前より雷神門の趾に至る間、仲見世(なかみせ)と称へて、両側の煉瓦造の華舖道を夾むで軒を列ね、多くは簪、筓、木偶、玩具、菓子、煎餅、あるは錦絵、絵草紙の類を商へば、見世棚の新を列ね奇を餝(かざ)り、艷美を競うて行人の眼を奪うこと、一場の花壇に似たり。子は拗捩(すね)て親に強請(ねだ)り、嬢は袖を引いて母に求む、賽客も旅人も此処に手土産を購むるなど殊に雑遝(ざつとう)を極む。”



明治5年(1872)2月下旬に起きた銀座大火をきっかけに銀座煉瓦街が造成されたと言われる。


藤森照信『明治の東京計画』(1997年5月28日第4刷発行,岩波書店)によれば、銀座煉瓦街につづき明治の東京にはいくつかの「赤い煉瓦の商店街」が見出されるそうで、浅草仲見世はその一つ。同書には「たとえば、明治18年には、東京府の手で浅草仲見世が平家建て連屋形式の煉瓦街に建て替えられる」とある。


当時、観音堂など諸堂と煉瓦造の店鋪との組み合わせに違和感を覚えた人たちもいたにちがいない。違和感どころではない、嫌悪感さえ抱いた人たちもいたかも知れない。その一方でこの珍奇な風景にとまどいながらも好奇の目を輝かせ、新しい時代の到来を肌で感じた老若男女もいたはずだ。また、浅草仲見世商店街振興組合の記事に登場するような人たちが存在したことも想像に難くない。


“明治18年(1885)5月東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、泣き泣き退店した後、煉瓦造りの洋風豊かな新店舖が同年12月完成、近代仲見世が誕生した。”


ここに「泣き泣き退店した」とある。これを、当時近代仲見世誕生の陰で「泣き泣き退店した」人たちがいたと捉えた時、「泣き泣き退店した」人たちのその後が気になるところだが、浅草仲見世商店街振興組合の記事はその点について触れていない。


日本の近代化といえば、こんなこともあった。明治41年(1908)10月、スペーリー少将が率いるアメリカ大西洋艦隊16隻が太平洋に回航、横浜港に立ち寄ることになった際、港町は開港以来ともいえる祝賀·歓迎ムードに包まれたそうだ。東京の各区各町も例外ではなかった。浅草区では、浅草橋欄干には日米国旗が飾られ、雷門、仁王門にも日米国旗を交差させて「ウエルカム」と大書した額を掲揚。仲見世は球灯と国旗で埋め尽くされ、まるで「花のトンネル」のようだったとか。(1999年4月岩波書店刊『都市文化  近代日本文化論5』所収、橋爪紳也著「都市装飾」)


時代下って大正12年(1923)関東大震災で仲見世煉瓦通りは壞滅するが、2年後の大正14年に鉄筋コンクリート造り、「桃山風朱塗り」の商店街に生まれ变わる。昭和20年(1945)の戦災では内部を消失するも、その後仲見世の人たちの努力で復興を遂げている。復興後の仲見世の歴史は「浅草仲見世商店街振興組合(2008)」(http://www.asakusa-nakamise.jp/index.html)の記事をご覧いただきます。


ちなみに「浅草仲見世商店街振興組合(2008)」を見ると東側に54店、西側に35店、合計89店の店舖がある。各店舖情報を得ることができるのもありがたい。


仁王門(宝蔵門)。



昭和20年(1945)東京大空襲により炎上、烏有に帰す。昭和39年(1964)大谷重工業の大谷米太郎夫妻の寄進により再建。



仁王さま「阿形(あぎょう)」


昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門(仁王門)の再建に際し、仏師の錦户新観(にしきどしんかん)によって制作された。


「吽形(うんぎょう)」

宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作(むらおかきゅうさく)によって制作された。



阿形、吽形共に身体健全、災難厄除の守護神。所持している金剛は、すべての煩悩を破る菩提心の象徵である。この仁王さまたちは、宝蔵門にあって参詣諸人をお迎えし、守っている。



観音堂。




ご本尊がそのお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であったといわれる。


宮戸川(現在の隅田川)のほとりに住む檜前浜成·竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を見つけた。


仏像のことをよく知らなかった兄弟は、像を水中に投じ、場所を变えて何度も網を打った。そのたびに先ほどの像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの像を持ち帰った。


土師中知(名は諸說あり)という土地の長に見せると、聖観世音菩薩の尊像であることがわかった。



翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に観音さまをお祀りした。中知はやがて私宅を寺に改め観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。これが今に伝わる浅草観音堂、浅草寺の始まりである。


金龍山浅草寺。

観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだった。この瑞祥が、山号「金龍山」の由来になっているそうだ。



聖観音は秘仏だが、次のような経緯があったそうだ。大化元年(645)、勝海上人という僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造した。ある夜、上人の夢に現れた観音さまが、「みだりに拝するなかれ」と告げた。以来今日まで、ご本尊は厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安されている。


観音堂に関連した出来事として都市問題研究の第一人者·磯村英一の体験は忘れられない。


磯村さんが震災後、東京市社会局に勤めるようになった時、社会局の嘱託として細民調查に協力していた草間八十雄に「祝ってやるからついてこい」といわれ、行ったところは観音堂。そこで磯村さんは草間氏から群がる浮浪者に“紹介”されている。


“草間氏が現れると、群っている人びとが挨拶する。なかには喜んで握手を求めるのがいる。その手には指の欠けたのや、血の滲んだのもある。ハンセン氏病の進んだ症状である。”

“草間氏は、今日は俺の仲間の"新入り”を連れてきた。若いけど可愛がってやれと。すると、二、三人が握手を求めてきた。“握ってやれ”草間氏の気魄に押されて、ためらうスキもなく、私は手を握った。あとで草間氏が、よくやったな、ただ“若し怖いと思ったら染(うつ)るぞ”という言葉をきいたとき、はじめて背筋の冷たさを感じたのである。”(『近代下層民衆生活誌Ⅰ』1987。紀田順一郎『東京の下層社会』2000年3月発行,ちくま学芸文庫より)


悲しいことだが、ある種の病いについて偏見があった、また有効な治療法がなかった、そのためだけとは思わないが、ここには排除する者とされる者、人と人との分断·断絕が描かれている。しかし、そんな時代にあって磯村さんに草間八十雄が言った「握ってやれ」という一言は重い。新型コロナ、变異株が物理的にも心理的にも人間社会にさまざまな影響を及ぼしている今から100年ほど前の出来事だ。


日の暮れかけた本堂脇に、和服姿の麗しきキツネたちが姿をあらわした。ひょっとして、このご時世にびくつきながら浅草寺に足を運んだ私へのほうびとして,秘仏の聖観音さまが麗しきキツネとなってそのお姿を現してくれたのかも知れない。そんな妄想とともにシャッターを切った。



惜しい。このまま家路につくのは、惜しい。

せめて木馬亭の外観だけでも見て、その後、夕暮れのなかライトアップされた浅草寺境内を步きたいのだ。

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