北京·胡同窯変

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第249回《寄り道编》浅草寺(中) 松井源水や永井兵助に会いたい。

舞台は浅草·奥山。

浅草寺のHP『浅草寺を知る』(https://www.senso-ji/about/)を見ると次のようにある。


“見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数数の興行が参詣人を喜ばせた。”


8代将軍吉宗(在職1716-1745)が鷹狩りの帰りに浅草寺に立ち寄って曲独楽を見たと記録に残っているそうだから、時代は江戸の中頃だったろう。


吉宗のことはさておいて、おそらく、浅草寺を訪れた多くの江戸庶民は、上の記録に名をつらねる名人たちの妙技に拍手喝釆したにちがいない。その名人たち、松井源水や長井兵助の名前が時代が下って、明治30年代の初めに出版された『東京風俗志』にも顔を出しているのを見ると、彼らがいかに著名人だったのかがよくわかる。


“世に居合抜とて、永井兵助、松井源水の流れを汲み、丈なる刀を容易く抜き放ちて手練を誇り、さて人の齲齒(むしば)を抜き、齒磨、金創膏などを売る野師あり。(中略)今も浅草公園を始め神仏の縁日の夕などにはこれを見るなり。”


今となっては楽しい思い出だが、子供の頃、上野不忍池弁天堂の境内の一画に日本刀を振り回している“おじさん”がいた。このおじさんが松井源水や永井兵助の流れをくんでいたのかどうか子供の私にはわからない。切り傷にこの薬を塗ればたちどころに治ってしまう、そんなことを言いながら塗り薬を売っていた。


恐ろしい。キラリと光る日本刀で己れの腕を切って見せる。すると切り口から血がにじむ。しかしどうだ、件の薬を塗ると傷口があっという間にふさがっているという按配なのだ。


このおじさんを取り囲む見物客の中に、恐ろしさと怪しさとがないまぜになった気持ちを抱きながらも、その一方で息を凝らしておじさんの一挙手一投足に目を輝かせている少年の私がいる。


記憶にまちがいがなければ、こんなおじさん、いや、おじさんたちが1964年に開催された東京オリンピック前頃まであたり前のようにいたような気がする。あの塗り薬を売っていたおじさんは、一体どこへ行ったろう。時代をさかのぼって明治時代の永井兵助や松井源水たちは、一体どこへ行ったか。


下の絵は『東京風俗志』より

お借りしたもの。

作者は松本洗耳。一度見ただけ

でも記憶に残る画風ですよね。



Web版『精選版 日本国語大辞典  小学館』を見ると松井源水について次のようにあった。


“大道芸人、香具師。昭和まで一七代を数える。歯磨粉、歯痛薬の販売や歯療治の人寄せに大道で芸を演じた。祖先は玄長といい、越中国(富山県)の出身で、反魂丹(はんごんたん)を創製。延宝·天和(一六七三一八四)のころ四代目が江戸に移住。以後代だい薬の宣伝に枕返し、居合抜き、曲独楽などをみせた。医師規定の制定後、衰微した。”


ちなみに『博覧会の政治学』(吉見俊哉著、中公新書)によると松井源水などの多くの芸人や曲芸師が海を渡ってその芸を披露したそうで、その点については高橋邦太郎『花のパリへ少年使節』、安岡章太郎『大世紀末サーカス』が詳しくふれているとのこと。(誤読のため記述を一部訂正しました。おわびいたします。2月9日午後)

松井源水が日本を代表する芸人の一人だったことはまちがいない。


永井兵助については次の記事が興味深い。

フリー百科事典『ウィキペディア』の『ガマの油』中「ガマの油売り」より。


“江戸時代に筑波山麓にある新治村永井の兵助が、筑波山の山頂で自らの十倍もある蝦蟇(がま)に諭されて故郷の「がまの油」を売り出すための口上を工夫し、江戸·浅草寺境内などで披露したのが始まりとされている。”


少年の私が不忍池で見たあのおじさんは永井兵助の末裔だったのか、そうだとするとあまりの感激で言葉を失うほかないのだが、上の記事に「筑波山の山頂で自らの十倍もある蝦蟇に諭されて」とあるのには目を注ぎたいと思う。ここには人が動物から生きる術を学ぶ謙虚な姿が描かれているが、その底には人びとの動物たちへの畏敬の念が流れており、人と動物との豊かな交流·交感が描かれていると思えるからだ。今からすれば遠い日の子供時代に出会ったあの“おじさん”の一拳手一投足が当時とはちがう意味をおびて一層輝いて見える。


なお、「がまの油売り口上」は、2013年1月「筑波山ガマの油売り口上」としてつくば市認定地域無形民俗文財第1号に認定されているそうだ。


添田唖蟬坊『浅草底流記』(昭和5年10月15日発行、近代生活社)の「浅草をうたった流行唄」の中に次の詞が載っていたので書き写してみた。かつて兵助の居合抜きや源水のこま廻しがいかに多くの人びとに親しまれていたかが伝わってこないだろうか。(ただし一部表記を変えています。)


永井兵助居合抜き

成田八幡駒形や

そこで雷門で飛んだり跳ねたり踊つたり

おもちや仲店五十間

ござれ参りませう、御本堂に参詣して

あとは奥山見物、源水こま迴し

浮かれ浮かれて、面白や


『東京風俗志』を見ると奥山でその妙技を披露していた芸人たちが明治17年(1884)に浅草公園第6区に移転したとある。


“都下には常設の観せ物場少からず、明治三十年には総数三十六あり、なかんづく、浅草公園第六区には二十二ありて、軒を列ね、一歳中興行を休むことなし、これ奥山の観せ物の、明治十七年、公園改正の際、移転せしものなり。近年までは筵懸の小屋なりしが、二十九年に多く火災に罹りしより、更に宏壮に構へたり。”



同書にはさまざまな観せ物があがっているが、その中でも球乗(たまのり)が評価高く、集客力のあったことを伝えているのが興味深い。


“中にも球乗は江川·青木の二座ありて、年少なる児女をして、大いなる球の上に乗りて立たしめ、足を以てこれを転(まろば)しつつ演台の上を迴らしむるものなるが、世に高評を得て、数年来うち続き興行すれども、今に至りて客を絕たず。”


続けて次のように書いている。


“女子の相撲·柔術·力持等は一時行はれたれども、裸体となりて演ずるがために、風俗を壞乱するを以て、早く二十四年の頃、官これを制止せり。”


浅草寺散步、もう少しおつきあいいただきます。


奥山門。

奥山おまいりまち。

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