北京·胡同窯変

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第250回《寄り道編》浅草寺(後)名和靖「通俗教育昆虫館」に入ってみたかったよ!

東京滞在中、ライトアップされた浅草寺をはじめて体験した。自粛生活を送っていたためもあり、感激もひとしおだった。



感激したといえば、今回、浅草寺を訪れたことをきっかけとして、昔、メリー·ゴー·ラウンドがあったという“木馬館”をめぐる新たな收穫のあったこともうれしい。



たとえば、現在、1階は浪曲の定席「木馬亭」、2階は大衆演劇の劇場「木馬館」として名を馳せるこの施設が、時代をさかのぼると1907年(明治40年)に昆虫学者·名和靖が設立した「通俗教育昆虫館」にたどりつくことを今回初めて知った。


昆虫学者·三宅恒方(みやけつねかた)氏が『動物学雑誌 第223号』(明治40年5月15日刊)の「昆虫学界近況批評の一」で昆虫館の紹介記事を書いていて、それを読むと名和さんの昆虫館設立の意図や昆虫に向きあう名和さんの姿勢の一端を知ることが出来るのではないか。


“同館は本邦昆虫界に其人ありと知られたる名和靖氏の創立にして浅草公園第四区にあり水族館と並ぶ。(中略) 元来名和氏は昆虫学の普通教育には多大な経験を有せる人なるを以て、其陳列しある方法、材料を選びし具合等は預る気がきいて、観るものをして痒き所に手が届く心持す。昆虫に関する普通の知識を一般の人に與ふる点に於ては多大なる利益ある事は余の信じて疑はざる所なり。”(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10827654/1でご覧いただけます)


「通俗教育昆虫館」という名称からも察することができるが、名和さんがこの昆虫館を開設した意図を上の三宅氏の言葉を借りれば「昆虫学の普通教育」すなわち「昆虫に関する普通の知識を一般の人」に広めることにあったと解してよいと思う。だからこそ名和さんは、陳列方法、材料などを「観るものをして痒き所に手が届く」ように工夫したのだろう。



昆虫についての知識を広く一般の人たちに知って欲しい、同時にその知識を害虫駆除や予防、益虫保護に活かして欲しい、この名和さんの熱い思いは、たとえば1896年(明治29年)4月、岐阜市京町に創設した名和昆虫研究所にも反映しているが、それは昆虫学者として名和さんの一貫した姿勢だった。


1897年(明治30年)の「うんか」の大発生に際し、農業従事者は未曾有の害を被ったそうだが、それをきっかけとして名和昆虫研究所は全国から聴講者をつのり、農商務省(農林·商工業行政のための中央官庁)の協力を得て、全国害虫駆除講習会を催している。


講習会の会員は、農業に従事している青年や郡市町村の役人、警察官、小学校の教員、神職や住持など、直接農業に関係する人たち、小学生を指導する人、当時農家の教化を任とした人たちなどで、講習方法はといえば、害虫駆除や予防法、益虫保護についての講述と野外での観察研究とを並行して行っていたそうだ。(『昆虫翁 名和靖』木村小舟著、昭和19年3月15日発行、童話春秋社刊。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169363)


講習会開催にあたって名和さんは講習会や害虫駆除に对して次のような考え方や意見を持っていたようだ。


“害虫の駆除には、何を措いても、まず第一に、昆虫学の基礎を定め、幾多の人物を養い育てて、次第に駆除の必要を認識させねばならぬ。どのように急いでも、あせっても、この事ばかりは、とても一朝一夕に、最大の効果を挙げることはむずかしい。”(同上。引用にあたり一部表記を改めています。)


“害虫と益虫との区別をも知らず、自ら手を下して、大切な益虫を殺したがために、駆除を行えば行うにつれて、ますます害虫を繁殖させて、思いもよらぬ損害を被ったという例も、これまでに、全く無かったとはいえない。故に何としても、この際にはまず(中略)昆虫学の素養ある指揮官をつくり上げて、これを先頭に立て、完全に駆除の目的を達するようにしなければならぬ(以下略)。”(同上)



「うんか」災害に際し、またそれ以降も名和さんが一般に配布したという害虫駆除の10ケ条なるものがあったそうだ。前に掲げた昆虫学者·三宅恒方さんの記事の中の言葉をお借りすれば「痒き所に手が届く」ような内容になっていて、いかに名和さんが昆虫について、あるいは害虫駆除についての知識普及に情熱を注いでいたかがよく分り、実に興味深い。(以下の引用は上掲の『昆虫翁 名和靖』からのものですが、著者は「次に靖の定めた十ケ条の主旨をかかげて参考に供しよう」と記していることをここでお断りしておきます。また引用にあたり表記を一部改めました。)


(一) 害虫駆除を理想的に行おうとするには、まず第一に、昆虫とはいかなるものか、その大体に通じることが最も大切である。


(二) 害虫と益虫との区別を明らかにし、害虫を駆除すると同時に、益虫を爱護しなければならぬ。


(三) 害虫の経過、習性を、くわしく知るにつれて、はじめて都合よく駆除を実行し得るものである。


(四) 単独にて駆除を行うは、比較的その効果が少く、これに反して、共同駆除を行えば、大いに効果が挙がる。


(五) 害虫駆除は、一人前の男子のつとめとするよりも、むしろ婦人子供のつとめとすべきものである。


(六) 害虫駆除を行うには、簡単にして有効なる器械と、確実にして廉価なる薬品とを選ぶことを忘れてはならぬ。


(七) 誘蛾燈は、用いてよいこともあり、また用いてよからぬ場合もある。注油法についても、やはり同様のことがいえる。


(八) 天然駆除(益虫の利用)を第一とし、出来るだけ人為駆除を避けるがよい。


(九) 害虫駆除は、いわば枝葉末節である。平常から予防に注意することが最も必要である。


(十) 予防の一匁は、駆除の一貫匁にまさることを知らねばならぬ。


新型コロナやその变異株に右往左往しているこんな時代だからこそ、昆虫学者·名和靖の遺してくれた10ヶ条がより一層の輝きを放ちながらこちらの心に響いてくるものがあるのではないかと私には思えてしかたがない。



今回、名和靖という昆虫学者について調べているうちに名和さんには上記の仕事以外に多くの業績があったことを幸いにも知ることができた。その中から二点、雑誌『昆虫世界』の出版と少年昆虫学会の內容とその評価の記された記事を次に紹介させていただきたい。


○『昆虫世界』について


“この雑誌は名和靖が主筆として毎号害虫防除についての指導的記事を掲載するとともに、一般昆虫学についての観察研究を登載し、ついに第二次世界大戦後(1946)通巻574冊をもって廃刊されるに至るまで、実に50年に亘って、最後1-2年を除いては途中全く休刊することなく規則正しく每月発行を続けて来たもので、これは広くわが学界を通じて他に類例を見ない大偉業であったと言わなければならない。(中略) 同誌は一地方の私立研究機関の経営であったために、学閥や官公私に偏重することなく広くわが昆虫学界各層に普及し、その執筆者はこの期間においてわが国のほとんど全部の昆虫学者を網羅したと言っても過言ではない。また新進無名のアマチュア研究者によって、その研究発表機関として広く利用せられ、同誌が明治·大正期のわが昆虫学界に貢献した功績は決して過小に評価されてはならないのである。”(江崎悌三『日本の現代昆虫学略史-日本昆虫学会40年回顧-』の「7 “昆虫世界”の創刊」、『昆虫 25(4)』東京昆虫学会、1957年9月25日。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1064620)


○“少年昆虫学会”について


“明治·大正時代には他にも地方的にいろいろな昆虫愛好者の団体が作られた。その中で特に少年昆虫学者のための会合としては名和昆虫研究所が組織した“少年昆虫学会”が全国的に多数の同好者を集め、昆虫世界の一部(12(7)-16(12)まで毎号4頁)をその会報欄に当てた。この会に入会したものの中には、後に昆虫学の専攻学者となった人もあり、また全国的に各地方に少年昆虫学会が勃興する機運を導いたもので、その役割は大きなものであった。”(同上、「10、明治、大正期の地方的な昆虫学会と研究所等の機関誌」。)



次に昆虫館開設前後の状況から木馬館開業までの流れを追ってみた。


《「通俗教育昆虫館」開設に至るまでの状況》


「岐阜名和昆虫研究所よりの書信」(「動物学雑誌 19  第222号」東京動物学会刊、明治40年4月15日)ならび『昆虫翁白話』(名和靖著、名和昆虫工芸部刊、大正13年1月25日発行)を見ると、昆虫館を東京·浅草に設けた理由などが書かれていて興味深い。次に参考として掲げさせていただきます。


▲「岐阜名和昆虫研究所よりの所信」


「四月三日付を以て同所より本会への書信の一般は左の如し·····前略先般本県下有志之相謀り一般国民に昆虫思想を普及せしめんには常置昆虫標本陳列館を東京に建設するは最も捷徑なりと発議有之若し当所にして之が出品の責任を負うに於ては建物一切を寄附せんとの申込有之候え共目下の事情当所が十分の責任を尽し得るや否やは覚束なき次第につき再三辞退致候え共熱心なる有志諸君の強ての希望黙し難く一方には既に東京市会の決議により場所の決定をも見たる次第に御座候えば止むを得ず不日浅草公園内に於て通俗教育昆虫館の名議を以て昆虫標本陳列館開館の積りに御座候間不悪御了知相成度尚勿卒の際素より不完全を免るる能わざる事に候えば何卒御高評の上御指導を仰ぎ度云云」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10827640/1)


▲『昆虫翁白話』の「第九七話 昆虫館と六観音」より


「明治三十九年の事なりき、某有志来りて東京浅草公園内に通俗教育昆虫館を建設する計画の相談もあれば翁も大いに賛成の意を表したる結果大いに尽力しました。翌四十年より活動を始め先ず東京市役所の許可を得るが第一にて次に場所指定等幾多手続の困難ありしとは勿論なるに最初建築場所撰定の際には公園掛りは素より時の市参事会員等数多の立会にて彼所此所との候補地を指定さるるも翁の心中には初めより有名なる阪東第十三番金龍山浅草寺(本尊聖観音)に比較的接近したる水族館の西隣の地を擇み居たるに果して其通りに定まりたるは偏に御観音様の妙智力なることを喜びました。」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972069/109)


《昆虫館の建物と経営難》


上揭『昆虫翁白話』の「昆虫館と六観音」を読むと建物がバラックであったこと、しかも入館者が少いために経営難に陥っていたことがわかる。


「最早場所の決定と同時にバラック建のものを作りて兎も角昆虫の標本並に昆虫に関する各種のものを陳列して漸く開館せしも観覧者少く結局維持も困難なれば百方手を尽せしも第六区の如く人の来らざれば愈いよ困難を極め看守人として女子一名なれば萬止を得ず翁は荊妻を招きて館内に看守女と三名棲み居たのであります。斯くすること約半ケ年になるも到底前途の見込なければ代人に託して皈宅しました。其間数年の内には弊害百出不利又不利の事のみ起りて利する所は一点もなきには驚きました。然るに最初より翁は館長の名義を有するを以て責任は悉く翁の頭に来りて何共致方なし。」


《松根末吉なる援助者出現す》


経営の行き詰まりに追い込まれ、頭を悩ませながらも昆虫館を維持していた名和さん。そんな名和さんの前に松根末吉なる援助者が現れている。


「其の人は昆虫館附近に住居せらるる所の極めて義俠心に富める松根末吉と申す観音様(名和さんは観音信仰の持ち主だったようで、この場合人物に対する名和さんらしい尊称。引用者)にて相当の出金をして昆虫館を引受け呉れました其金員を最初の出金者に分配して漸く解決出来まして安心をしました。其際翁も幾分の分配を得ましたが直に其金額全部を研究所の基本金中に寄附して置きました。」(同上)


その後、いつのことかは不明だが松根末吉なる人物は昆虫館の「発展 に苦心中不幸にして逝去」。その後は未亡人幸子氏が運営を继承するもかなり困却していたのではと思われるが、そこに幸いにも第二の援助者が現れている。



《喜劇王·曾我廼家五九郎の出現》


第二の援助者とは当時喜劇王と言われた曾我廼家五九郎、本名武智故平氏のことだ。


五九郎について当時次のような評言があった。

「浅草へ来た人で五九郎を見ないものは誰れ一人あるまい。否な東京に住んで五九郎の名をきかぬ人もあるまい。今では曾我廼家五九郎は浅草の五九郎ではなぐ東京の五九郎だ。日本唯一の喜劇名優だ。」(大正5年5月15日発行『活動俳優銘銘伝 一の卷』岡村紫峰著、活動写真雑誌社刊。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/915985/30)


名和さんは五九郎という支援者の出現について「昆虫館と六観音」で次のように書いている。

「夫より松根観音は館の発展に苦心中不幸にも逝去されました未亡人幸子観音残りて寧ろ昆虫館を迷惑され居る際茲に不可思議にも有名なる喜䖌の大家曾我廼家五九郎事武智故平御観音様の出現ありて松根幸子観音を助けられました此の武智観音様は余程御観音様に因縁の深き人なるや浅草第六区の観音劇場は誰の経営の許に営業せしも損害又損害せしも武智観音経営後の観音劇場は每日大入の全盛を極めて居らるることは同氏の熱心は申すまでもなけれ共御観音様の御加護の力も多大なることと深く信じて居ります。」(同上)


曾我廼家五九郎氏が昆虫館の支援に乗り出したのはいつごろのことか。ウィキペディア(2021/05/12  23:50 UTC版)の「曾我廼家五九郎」を調べてみると、幸いにも昆虫館支援のことが書かれていた。


「満41歲を迎える1917年(大正6年)、同年に東京·浅草公園六区の観音劇場の経営を根岸興行部に任され、一座で公演する。このころ、浅草の通俗教育昆虫館の経営を支援し、建替え資金を供出している。」


上の記述を読むと五九郎氏が昆虫館経営を支援したのが1917年(大正6年)頃であったことがわかる。「建替え資金を供出」ということで、当時昆虫館には建替えの話しなどがあったのかが気になるところだが、昆虫館の建替えに関しては後に触れたい。


《五九郎以後と二階建て新昆虫館開館のこと》


次に五九郎氏支援後の昆虫館がどうなったのかを見ておきたい。

『昆虫翁白話』の「第九七話 昆虫館と六観音」は支援者(経営者と呼んでもよいかも知れない)の移り变わりについて次のように記している。


「然るに昆虫館は松根観音より武智観音に移り夫より茲に人格者小泉丑松観音其他中村米本二観音の手に護られ愈いよ大だい的発展の計画も出来昨年末迄に鉄筋コンクリートにて間口七間奥行九間二階建の昆虫館(揷図の如き)は立派に落成し本年一月一日より開館せられ一般人に観覧せしむる事になりました。(中略) 大正十二年九月二日記」とある。


これを読むと昆虫館への支援が、曾我廼家五九郎(武智故平)氏から小泉丑松氏および中村、米本なる二人物に移ったことがわかる。

(小泉丑松とは興行会社·根岸興行部の土台を築いた根岸浜吉の女婿で、興行部二代目の経営者。残念ながら中村、米本なる人物については不明。)


また、文中に「昨年末迄に鉄筋コンクリートにて間口七間奥行九間二階建の昆虫館(揷図の如き)は立派に落成し」とあるが、この「昨年末」が、末尾に「大正十二年九月二日記」とあるので、二階建て新昆虫館が大正11年(1922年)末に落成したことがわかる。そして二階建ての昆虫館の開館が、大正12年(1923年)1月1日であったことは断るまでもない。



さて、二階建の新昆虫館の開館日などを『昆虫翁白話』で知ることができた。だがこの著書は二階建て新昆虫館がいつ木馬館に变貌したのかという点には触れていない。


そこで木馬館がいつ開業したのか知るべくウキィペディア(2021/06/27  07:49 UTC版)「木馬館」で調べてみた。すると昆虫館と木馬館との関係をめぐり次のようにあった。


「開館当初こそ人気があったもののすぐに経営は行き詰まり、1918年(大正7年)、根岸吉之助(既出小泉丑松氏の子息、引用者)率いる根岸興行部に経営が移った。」


「1922年(大正11年)昆虫の展示は2階部分のみとなり、1階には木馬が設置され、名称も「昆虫木馬館」、ついで「木馬館」となる。」


前者の記述-1918年(大正7年)に経営が根岸興行部に移行したことはさておいて、また、後者の記述-二階建て新昆虫館が落成した1922年(大正11年)に1階に木馬が設置され、2階部分に昆虫展示がなされたこともさておくとしても、その際名称が昆虫館と木馬館とを合体したような昆虫木馬館になったという点には疑問を提出しておきたい。


というのも『昆虫翁白話』の「第九七話 昆虫館と六観音」には二階建て新昆虫館の写真が挿図として載っていて、その建物の正面には昆蟲館という看板が見えているからだ。もし、名称が昆虫木馬館となったのならば、それは1922年(大正11年)よりも後年のことではなかったか。


下の写真は『昆虫翁白話』より

お借りしたもの。


正面に昆蟲館という看板が見える。

1階部分の左右に出入口が二ケ所あり、

1つは回転木馬が設置された1階部分の、

1つは昆虫展示の2階部分の出入口だっ

たのではと思われる。だとするならば

1階部分に見える2つの小窓のうち、1

つは1階用、1つは2階用の入場券壳場

だったのではないか。


上に1922年(大正11年)に名称が昆虫木馬館になったという点に疑問を提出した。もちろんこの名称がいわゆる通称であったり、または回転木馬の設置された1階部分のみの名称であったならば、私の疑問は不当なものになるのだが、それを承知で疑問として書いたことをお断りしておきたいと思う。


《結びにかえて》


ウィキペディア「木馬館」に次のようにあった。昆虫ファンの少年少女たちには悲しすぎる出来事だったにちがいない。


“1931年(昭和6年)2階から昆虫展示が消えた。”


だが、この記録は事実なのか、この年、本当に昆虫展示は消えたのか。ここで性急に結論を出すのは控えるが、次のような記録があったことは書いておきたい。


1933年(昭和8年)12月4日発行『東京市商工名鑑 第5回』(東京市役所編纂、ジャパン·マガジン社刊)に次のようにあった。


営業品目     遊技場賃貸、昆虫品参考陳列

営業者名     合資会社 昆蟲館

                    代表    田沼鈴

営業所         浅草、浅草公園、四区三号


これとほぼ同様の記録を1935年(昭和10年)12月20日発行『東京市商工名鑑 第6回』でも見ることができる。


営業品目     昆虫販壳、興行物経営

局号商号 営業者名    合資会社 昆蟲館

                                 代表 田沼鈴

営業所         浅草、浅草公園、四ノ三


上の記録は次のURLでご覧いただけます。

第5回

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873399/790

第6回

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1905755/787


今回、かつてカブト虫やセミやチョウなどの昆虫と戯れた日のことを思い出しながらこの記事を書いた。書きながら、名和さんは昆虫が大好きだったんだな、と思った。


浅草は娛楽の迷宫である。そんなことを言ったのが誰だかは知らないが、次回もう1回浅草という迷宫で遊んでみたい。*^_^*


今はもう「通俗教育昆虫館」はないけれど、100年以上が経った今も名和さんの夢や希望がきらめく『名和昆虫博物館』や『名和昆虫研究所』、そのホームページもぜひご覧ください。

☞  https://www.nawakon.jp/

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