北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第258回 胡同回憶・米市胡同(後)

康有為故居(南海会館)の見学後、気持ちが落ち着き周囲の状況をやや冷静に眺めることが出来るようになっていたようで、まだ営業中の店舗やこれから取り壊されるであろう家屋の写真を数枚ですが撮ることが出来ました。


下の写真に写っているのは、営業中の食堂です。この食堂からこの周囲にはまだ立ち退いていない住民、すなわちこの食堂の利用者のいることが分かります。


住所番地を示す「門牌」は取り外されており、番地は不明。
この時、米市胡同という地名は消失していたのかもしれません。


取り壊し中の住宅。


大きな立派な建物がありました。


上の写真の建物を反対側から撮ってみました。
まったく人の気配はありません。


さて、前回はこの胡同に多くの会館が存在していたこと、そのひとつ南海会館には康有為が暮らしていたり、安徽省の会館に『毎周評論』の編集部が置かれていたことなどについて触れました。


先に未だ営業中の食堂を紹介しましたが、時代は遡り、この胡同内には、北京ダックの老舗で著名な「便宜坊」の旧跡があったそうです。住所は米市胡同29号。(この住所番号に注目願います。のちに再び登場。)


また、やはり北京で有名な宮廷風味菜の「譚家菜」の譚家の主人、広東南海出身の官僚、譚宗浚の旧居がこの胡同にあったとか。住所は米市胡同47号。


訪れた時、各家屋からはすでに門牌(住所表示板)は取り外されていたため、自分の目で確認は出来なかったのですが、北京在住中国人の胡同ファンの中には、上に挙げた大きな建物が便宜坊旧跡だという方がいらっしゃるようです。


また、中には下の写真の大きな看板らしきものがかけられた入り口の隣、写真に向かって右側のお宅が便宜坊旧跡だという人もおられます。はてさて、北京ダックの名店・便宜坊の旧跡はどこにあったのやら、今後も調査する必要を切実に感じてしまう今日この頃です。いずれにしても、食欲をそそる人騒がせな北京ダックのお店です。



理髪店がありました。しかも、営業中。


お店の中を撮らせていただきました。
内部の様子から当時も利用者がいたことが分かります。


名前は「雲風理髪館」。
年季の入った椅子が印象的でした。胡同会代表でもある多田麻美さんの『老北京の胡同』(2015年、晶文社刊)でも取り上げられており、この椅子は立ち退き期限が来た後、首都博物館に収蔵されるそうです。


周辺は瓦礫だらけでした。


《日本関係の企業》
日本占領期の北京に日本関係の企業があったのは言うまでもありません。米市胡同にもありました。名称を次に記してみました。ただし、責任者名は今回は省略。


名称・・・北京発條工場
住所・・・米市胡同29号 
事業内容・・・汽車用、自動車用、紡績用、諸機械用各種発條専門製作
年代・・・昭和16年(1941年)頃


名称・・・永華印刷局
住所・・・米市胡同38号
年代・・・昭和13年(1938年)頃


《各種学校》
次に、やはり日本占領期にこの胡同にあった学校を挙げてみました。ただし、以下にあげる学校は中国側の学校で、時代は昭和13年(1938年)頃。代表者名は省略。


名称・・・宣外米市胡同短期小学(市立) 
住所・・・米市胡同であることは分かるが、番号の記載なし。


名称・・・第二十七民衆学校(市立)
 住所・・・米市胡同44号。


名称・・・国英女子職業伝習所(私立) 
 住所・・・上と同じく米市胡同44号。
※直前の学校と代表者名が同じ。


直前の中国側学校名の載っていた資料の教育関係のページには、下のような日本語教育に関する文言があり、日本軍占領期当時の北京の雰囲気の一端を垣間見るような気がします。上に挙げた中国側学校と具体的にどの程度関係があったのかどうかはさておいて、参考として次に掲げておきました。


“我々が北京天津の街を歩いて真先に目につくのは「日語教授」の看板の増えたことである。新政府成立(※)前後より中国人の間に日語熱の盛になったことは驚くべきほどで、愛善学校の如く、従来より組織的に日語教授を行なって来たものの外、私塾の類が至る処にあるこれは日支提携に対する中国人の関心の最も端的な現れであると見ることが出来る。政府は、中・小学校に於て日本語を正課とすべきことを決定した。また一月より編纂中であった親日教科書もこのほど完成し、四月の新学期より、初・中等学校に於て使用されることとなった。”   ※「新政府」とは、1937年12月に北支那方面軍(日本軍)を背後に成立したと言われる中華民国臨時政府のこと。


かなり年季の入った老建築物が並んでいます。
壁をよく見ると1960年代後半当時の中国の記憶がまざまざと刻まれていることが分かります。


営業中の雑貨屋さん。

垂れ幕に書かれた漢字一字は、「無実、不当である、損をする」などの意味を持っています。住民の方たちの思いを託した言葉でしょうか。


思えば、せっかくデジカメという文明の利器を持参していたわけですから、もっと丁寧に当時の米市胡同を一枚でも多く撮っておくべきでした。実際、当時はまだ住民の方がおられた建物があったのです。


取り壊されることが分かっていながら住み続ける住民の姿、無残にも取り壊されている家屋、雑草と瓦礫の広がる景色にはからずも動揺していたために写真を撮ることがおろそかになってしまったことを残念に思っています。今はもう消失してしまった米市胡同、記録することの大切さを教えてくれた米市胡同、再見!!


結びにかえてニャンコがお昼寝中!! の姿をご覧いただきます。
雑貨屋さんが飼っている猫のようでした。


こういう状況の中であっても熟睡していたネコの姿が十年後の今でも目の奥に焼きついています。まだ多くの住民がこの胡同に暮らしている頃、おそらくこのネコは住民のみなさんに可愛がられていたのではないでしょうか。まったく警戒心もなく熟睡中のニャンコの周りだけにはおおらかな空気が流れていました。

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