第319回 北京・万明路(その5) ―新世界に日本企業があったのにはビックリだぞ!?―
🔳昔の北京の歴史の一コマとして
いよいよ万明路歩きも最終回となりました。
で、今回は、
「昔万明路(マンミンルー/まんめいろ)には、どんなお店があったのかな? 」
そんな疑問を少しでも 解決すべく(解決できるかどうかはさておいて)、現在しぶとく生存しているわたしが知ることの出来る範囲内で店舗などあれこれを調べて書き連ねてみました。
過去の北京の歴史の一コマでも知ることが出来れば、嬉しい。
写真は、万明路の北口から南方向を撮っています。以下、途中までの写真は以前にもアップしたものですが、少しでも通りの雰囲気が伝わればと思って再度載せてみました。
🔳所在地と番号のわかる店舗など
営業者名(店主名・責任者名)並びに電話番号は省略しました。
上の写真は、万明路の北口・西側です。
〇 萬明女子職業補習学校
※こちらは中国の私立の専門学校
所在地・・・前外香萬(※)萬明路1号
※「香萬」とあるのは「香廠」のミスと思われます。
※番号は、当時のもので、奇数番号は西側にありました。(以下ことわりのない限り同)
出典:安藤徳器編『北支那文化便覧』 昭和13年(1938)10月23日発行 生活社
〇 大經商店
所在地・・・萬明路北口
※番号は不明だったのですが、「北口」とあったのでとりあえず所在地と番号のわかる店舗の仲間入り
営業品目・・・綢段、洋貨
創業・・・・民国13年(1924年)
出典:昭和14年度版「帝国實業商工録」( 帝国實業興信所編纂 昭和14年6月10日発行)
※大經商店について
昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)によると、名称が「大經號」となっており、「従業員数」も記載されていて「14」となっていました。また、営業種目が「綿布」となっていました。
〇 徳記
※こちらは電気関連の企業
所在地・・・北京萬明路2号
※ 番号は、当時のもので、偶数番号は東側にありました。(以下ことわりのない限り同)
開業・・・民国17年(1928年/昭和3年)
出典:「昭和14年 電気年鑑」合資会社電器之友社発行
上の写真は、万明路の北口・東側です。
〇 東方飯店
所在地・・・北平前門外 萬明路7号
営業種目・・・飯店・室内設備完備
和洋支料理食堂附設
創立・・・昭和11年(※)
※創立について・・・東方飯店の創立は民国7年(1918年)とあるべきところですが、ここでは「昭和11年」となっていました。その理由は不明。
出典:昭和14年度版「 帝国實業商工録」( 帝国實業興信所編纂 昭和14年6月10日発行)
現在の東方飯店の住所・万明路11号。昔は7号でした。
〇 伊勢屋ホテル
👉今の日本にもありそうなホテル名。
所在地・・・香廠 萬明路27号
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」( 株式会社日本商業通信社 昭和14年5月15日発行)
〇 大西味噌醤油醸造合資会社
「新世界」の中に日本の企業があったなんてビックリ! (@_@;)
しかも味噌醤油醸造の会社。
北京で暮らす当時の日本人には醤油や味噌は生活必需品だったようで、国内と同様の生活スタイルを維持していたことがうかがえる一コマです・・・。
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
所在地・・・北京前門外 新世界 萬明路甲30号
種目・・・・味噌醤油醸造
商標・・・・=ひのまる=
設立・・・・昭和十三年
出典:「帝国實業商工録」紀元2600年記念版 ( 帝国實業興信所編纂 昭和16年9月25日発行)
〇当時(昭和13年/1938年)北京で暮らしていた日本人数
昔、北京にはどのくらいの日本人が暮らしていたの?
そんなことが気にかかり、わたしなりに調べてみました。
ご参考に昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」に見える北京に暮らす邦人(内地人、朝鮮人、台湾人)の人口動態を次にあげておきました。
昭和13年/1938年の場合
内地人 1月/3,344 2月/4,494 3月/6,147 4月/8,226
朝鮮人 1月/2,422 2月/2,900 3月/3,375 4月/4,268
台湾人 1月/31 2月/31 3月/42 4月/50
直前の記事の3年後発刊の「中国工商名鑑」昭和16年版(商業通信社)に次のような記事が載っていたので、次に掲げておきました。当時の北京で暮らす邦人の増加ぶりに驚きです。邦人という言葉はこの場合、内地人、朝鮮人、台湾人を指しているのではないかと思われます。
邦人の増加著しく事変前の昭和十一年三月僅かに四千人にすぎなかったものが今日八萬を数えるに至っている。
(※)事変とは、1937年7月7日に勃発した「盧溝橋事件」を指しています。中国では「七七事変」。引用者
〇 泰昌號
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
営業種目・・・各種割箸、折箱
所在地・・・・前門外 萬明路31号
出典:「中国工商名鑑」昭和16年版 (日本商業通信社 昭和16年8月25日発行)
〇 東海貿易社
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
所在地・・・前門外 萬明路31号
営業種目・・・米穀、海産物
出典:昭和17年版「中国工商名鑑」( 株式会社日本商業通信社発行 昭和17年9月28日第1版発行)
🔳番号のわからない店舗など
番号のわからない店舗として、まずは現在名・北京市宣武中医医院から・・・。
次の写真は、「北京市宣武中医医院」
東方飯店の出入り口の南口真ん前にある病院です。現在住所は万明路13号
北京市宣武中医医院の沿革を急ぎ足で次にたどってみました。
〇前身、清朝光緒年間設立の内城官医院、外城官医院両所。
▼仁民医院設立
民国4年(1915年)、京師市政公所市政督辦・朱啓鈴が資金を集めて仁民医院を建設。
仁民医院の載っている地図
「新測北京内外城全図」(中華民国十年十二月再版、上海商務印書館発行) 複製
仁民医院について
仁民医院は10余畝の広さ、東は万明路、西は阡児路、南は仁民路、北は香廠路に隣接。
医院の東北側の上部には「仁民医院」と刻まれた扁額が掛けられたアーチ形の門があり、新世界の門と向かい合っていたそうです。
医院の北の部屋は問診室と入院部門の二階建ての建物で、二階のシングル用病室は廊下とバルコニーにつながっており、階下には手術室、レントゲン室やその他の病室、中庭に面した外廊下と花壇があったとか。
▼ 民国6年(1917年)5月、仁民医院営業を停止。
▼ 外城官医院・・・民国6年(1919年)9月、外城官医院となる。
外城官医院の載っている地図
「最新北平全市詳図」(中華民国二十三年版、総発行所北平西単牌楼迤南建設図書館) 複製
▼ 市立医院となる。
1933年、内、外城官医院が改組され市立医院となる。
市立医院が載っている地図
「北京内外城詳図」(民国29年頃作成) 複製
赤い矢印が市立医院。その左側に「検験娼妓事務所」とあるのは市立医院附設(?)の妓女たちが健康診断を受ける施設。何時からこの場所にあったのかは不明。ちなみに万明路を北方向に進み、通りを一本渡ると「八大胡同」と呼ばれた妓楼の集まった場所があり、また、医院の付近にも妓楼がありました。
▼ 1949年以降、次のように改名されています。北京市第一医院、工農兵医院、万明医院。
▼ 1972年、北京市宣武中医医院と改称。
北京市宣武中医医院の前を南方向に歩いていて偶然出会ったワンちゃん。
ピントがはずれてしまいました。ワンちゃんには申し訳ないことをしてしまった。
〇 徳順
所在地・・・萬明路
営業種目・・・・長途汽車(長距離自動車)
従業員数・・・17
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
〇 雪年
所在地・・・萬明路
営業種目・・・・長途汽車(長距離自動車)
従業員数・・・17
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
こちらのスーパーは万明路44号。
〇 天利
所在地・・・萬明路
営業種目・・・荷車・人力車製造
従業員数・・・5
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
〇 裕昌
所在地・・・萬明路
営業種目・・・荷車・人力車製造
従業員数・・・4
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
〇 利生
所在地・・・萬明路
営業種目・・・荷車・人力車製造
従業員数・・・8
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
〇 上に「人力車製造」企業がありましたので、次に北京を走っていた人力車について触れてみました。
1917年、北京の人力車数・・・20674台。その内、2286台は自家用、17988台は営業用。
1939年、人力車の量が37036台に増える。その内、自家用は2489台、
営業用は34647台。
人力車夫の数が5万人を超え、北京人口のおよそ1.5%を占めていたそうです。
ちなみに、人力車は1900年(光緒27年)前後に北京に日本からやって来たので「東洋車(ドンヤンチョー)」、「東」の一字が省かれ「ヤンチョー」と呼ばれていました。人力車夫は「拉洋車夫(ラーヤンチョーフー」と呼ばれていました。※中国からすると日本は東方向にあり,東の海を渡って来たということで「東洋車」と呼ばれたようです。拉洋車夫は、洋車を引く男。
参考:刘牧著『当代北京 公共交通史話』当代中国出版社、2008年1月
〇 明綸號
所在地・・・萬明路
営業品目・・・綿布
従業員数・・・22
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
〇 光成洋行
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
所在地・・・(支店)前門外萬明路
※支店が「東単二條胡同」にもありました。
※本店は「崇内土地廟下坡10」。
営業種目・・・織物、紙、石鹸、海産物、瓶罐詰、和洋酒、調味料
出典:昭和17年版「中国工商名鑑」(株式会社日本商業通信社発行、昭和17年9月28日第1版発行)
〇 剛美薬品公司
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
出張所・・・北京市前門外萬明路
営業所・・・奉天市
営業種目・・・薬局、化粧品
出典:昭和18年版「著名商工案内」(株式会社商業興信所、昭和18年5月26日発行)
〇 中山太陽堂
👉経営者の名前は省略しましたが、経営が日本人名のお店。
支店名・・・正陽公司
所在地・・・(支店)北京前門外香廠萬明路
営業種目・・・化粧品(?)
本店・・・大阪市浪速区水崎町40番地
出典:昭和4年版「大阪商工大観」(株式会社夕刊大阪新聞社、昭和4年6月28日発行)
お次は前回紹介した谷崎潤一郎が中国旅行の際に訪れた中華料理店。
〇 新豊楼
萬明路
営業種目・・・飯荘(食堂)
従業員数・・・15
出典:昭和14年版「北支蒙疆商工名鑑」(株式会社日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)
この中華料理店は、清末民初にかけて北京の飲食店「八大楼」の一つとして重要な地位を占めていました。が、腕の良い名コックさんたちが辞めてしまい、1930年代以降傾いてしまったようです。現在、新豊楼烤鴨・京魯菜(官園店)として開業。(参考:「新豊楼飯荘的前世今生」Tiktok@万寿香など)
※ちなみに新豊楼から移ったコックさんたちが設立したのが現在の老字号「豊澤園」なのだそうです。
新豊楼旧跡は屋根の部分に飾りの見えるこちら。万明路北口出入り口の西側
いよいよ万明路の南端に到着です。
万明路の南端。横切っているのは永安路。
今回は万明路に昔あった店舗あれこれをご覧いただきました。
今回は万明路歩きの最終回。
長い記事にお付き合いくださり、ありがとうございました。
お粗末さまでした。














