第293回 《寄り道編》初春の古北水鎮(中)
かつて北京城内を走っていた有軌電車(路面電車)。
その路面電車をあとにして、さらに歩くと、読書する人。
こういう集中力が欲しい。
さらに進むと、再び懐かしい風景。
「望京街」。
時間をかけて一つ一つの店舗に立ち寄ってみたいところなのですが、今回は写真を撮るだけでした。
こんな看板がありました。
「深夜食堂」。
なかを覗いてみようと思ったのですが、残念ながら営業時間ではありません。
歓迎光臨。
営業時間「20:00―03:00」。
額面通り「深夜食堂」。
足湯に浸かって身も心もリフレッシュ。
いい雰囲気の川がありました。
小さな川の流れに沿って歩いて行くと、
「別有洞天」と書かれた提灯。
「(ここはまるで)別世界だ」といったところでしょうか。
可愛らしい石橋。
橋の名前・・・「洗塵橋」。
ちなみに、写真正面奥に見えるのは、司馬台長城の一部。
川の流れからはずれて石段を上がってみると、なぜか懐かしさがこみあげてくる雰囲気の場所に出ました。
しばし佇んでいると、辺りがぼんやりと黄昏てきました。
黄昏の中に不意に点った灯かり。黄昏の中で見る灯かりはむしょうに美しい。
石段を下りて再び小さな川に沿って歩き出しました。
写真奥に見えるのは司馬台長城の一部。
なんでしょう、これは。
歩いていると、こんなものに出っくわしました。
黄昏の中で観たためか、遠くから眺めると、得体の知れない不思議な白と赤の丸いものが空中に浮いているように見え、ちょっと不気味でしたね。
橋の上から川を覗いてみると、鯉。
たくさんの鯉。
さらに周囲が薄暗くなり、輪郭がぼやけはじめた司馬台長城。
すっかり薄暗くなってきた中で、可愛らしい大砲を見つけました。
レプリカだとは思うのですが、これは康熙8年製の「紅衣大炮」。
康熙帝は清朝の第四代皇帝(在位1661~1722)。大砲に刻まれた康熙8年は、西暦で1669年。
長城を越えてやってくる敵をこういう大砲で撃退しようとしたのでしょうか。
《長城を越えてきた恐ろしい敵軍》
長城を越えてやってきた敵。
古北水鎮から見えたり、歩くことの出来る司馬台長城からそれほど遠くないところには「古北口長城」という長城が築かれているのですが、昔、この長城を越えて北京城を襲撃、包囲した軍勢がありました。時代は、明の嘉靖29年(1550)8月。襲撃してきたのはモンゴル(蒙古)のアルタン・ハン。歴史の本などでは「庚戌の変/こうじゅつのへん」と呼ばれていますが、この騒乱をきっかけとして北京城の外城(がいじょう)は築かれたそうです。外城は嘉靖32年(1553)から11年の歳月を費やして築かれました。
時代はだいぶ下るのですが、昔、日本の軍隊も長城を越えて北京に迫ったことがありました(結局、北京を占領してしまうのですが・・・)。
1933年(民国22年、昭和8年)3月初め日本軍は長城を境に河北省と接している熱河省に進み、省都の承徳を占領。その後、長城線を越えて河北省内に進み、5月の下旬、北京(当時は北平)から30~50キロまでに迫ったそうです。1933年5月31日、日本軍と中国軍は河北省東北部を非武装地帯とする「塘沽(タンクー)停戦協定(塘沽協定とも)」を結んでいます。1937年7月7日に勃発する「盧溝橋(ろこうきょう)事件」(中国では七七事変)の4年ほど前のことでした。
反省の弁・・・古北口鎮には、この時の中国軍と日本軍との戦いの様子をさまざまな資料(当時の写真や銃火器など)を通して知ることの出来る「古北口長城抗戦紀念館」があり、歴史大好き諸兄諸姉にはぜひ訪問することをお薦めいたします。個人的には、残念ながら今回は下調べや時間不足がたたっておじゃまする事が出来ませんでした。
上の写真の「康熙8年製の紅衣大炮」が飾られていたのは、あるお店の玄関前だったのですが、そのお店の看板の一部。
トマホークステーキ
料理は超満足です!
お腹はすいてきていたのですが、ホテルの近くで食事する予定があり、このステーキは次回ということにしました。
このステーキのお店の近くにあった、たくさんの提灯が飾られたお店。暖簾に「温泉・酒店」とあったのが印象的でした。
温泉につかった後、冷えたビール、あるいは日本酒をグィッグィッと。
提灯を見ながら、ついつい想像してしまいましたね。