北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第304回 北京・紅燈幻影 《博興胡同》その2 ―同善という民間自衛組織があった―

久しぶりの胡同歩きで心地よい緊張感を道連れに歩き始めた博興胡同もあと少しで終点。


下の写真、向かって右に見える玄関は博興胡同13号。


13号院からほんの少し西方向へ行ったところにある二階建ての家。




この二層の建物、昔はいったい何だったの?  そんな疑問が一瞬頭の中をよぎったのですが、それはさておき、手前に見える玄関のお宅は、博興胡同21号院、その隣りは23号院。


二層の建物の西隣りは、博興胡同25号院。


玄関に「福」の一字が逆さまに貼られています。


中国語では、「倒」と「到」の発音が同じで「dao/ダオ」。そんなことから、「福倒了/フーダオラ」(福が逆さになった)で、「福到了/フーダオラ」(福がやってきた」という、とってもおめでたい意味に。


この25号院には、もう一つ興味深いことがありました。


北京ではふつう門牌に番号だけが書かれているのですが、この25号院、なんと、北京では珍しく玄関わきに日本と同じように表札があり、そこに住所番地とともに居住者の姓名までが書かれていたではありませんか。こんな表札に遭遇するなんて、貴重な体験ができました。


25号院の前を通り過ぎていくと27号院。



さらに進むと消防設備。道幅の狭い胡同ならではの風景です。



さらに歩みを進めると縁起の良い「蓮の花」。



その西隣には、鳳凰を中心に多くの鳥が群がる絵が飾られていました。


題名は“百鳥朝鳳“。

鳳凰は、ご存じのように中国の神話・伝説に登場する瑞鳥。徳の高い優れた天子が治める平和な世の中にのみその姿を現すと伝えられています。


上の絵には、平和な世であってほしい、世の人々のそんな希求の念が込められているのではないでしょうか。


絵の下には消火栓。


【同善煖廠について】
さて、あとわずかでこの胡同も終点ですが、このあたりでかつて博興胡同にあった民衆自衛組織について簡単に触れておきたいと思います。


清末の朱一新撰『京師坊巷志稿』に次のような記述がありました。


柏興胡同 有同善煖廠”(※1)


「柏興胡同には、同善煖廠あり。」といったことですが、「同善煖廠(どうぜんだんしょう)」ってなに?


「同善」は、かつての北京にあった民衆自衛のためにつくられた組織団体の一つの名称。
同善の営んでいた事業は、消防と自警と慈善の三つあったようですが、「煖廠」は慈善事業の中の一つ。


今堀誠二著『北平市民の自治構成』(昭和12年9月25日発行、文求堂刊)を見ると、同善という組織自体の設立は同治十三年(1874年)以前に溯るとのことですが、同善煖廠は光緒元年(1875年)に創辦され、民国二十三年(1934年)まで継続したようです。(※2)


その営みの内容はといえば、同書によると「貧老の民人を収容し、冬期を主とするが夏にも残疾の老人は斟酌して残留」させており、煖廠とは、貧窮者に住居を与え、食を供給していた施設だったと考えてよいようです。


この同善煖廠という施設の様子をありがたいことに今堀さんは記録していて、「一つの庭を囲んだ四棟の房よりなる標準的民屋で、十一間房子の手狭さ乍らかなりよい建物である。収容限度は四十人位であろう」と書いています。


なお、同書には同善煖廠の附帯事業の一つとして「惜字」という慣習が書かれていました。かつて中国にあった興味深い営みなので書き写しておくと次の通り。


“惜字は煖廠の附帯事業である。條規には廠内に惜字會館を置き、字紙即(すなわち)漢字文を書いた紙を集めて來て敬焚し、字灰をとって置いて盧溝橋河に流したという。”


“惜字會館とは、字紙を焼く為の爐と附帯施設の事であるが、煖廠に住む者を使って路上その他に捨てられた字紙を集めさせていたのであろう。”


“惜字は中国では極めて普及して居て、善擧と認められて居る。”


惜字とは直接関係ないのですが、直前の一文に続けて煖廠について次のように書かれていました。「宋氏(同善の会員の一人)によれば煖廠では夏季に施茶即行きずりの誰でも茶が飲める設備を附帯事業として行った由である。」


北京に同善などの民衆自衛の組織が抬頭したのは、上掲の『北平市民の自治構成』によると、アヘン戦争(1840年~1842年)の二年後の道光25年頃からで、北京の外城に約25以上の団体が民国初年までに結成され、筆者が調査した民国32年(1943年)頃にも16ほどの団体が存在していたそうです。


その団体名、


公議、公義、治平、義善、三善、同善、崇東、永濟、坎濟、保安、同義、普善、同仁、普義、與善、安平、成善など


上のような団体が結成された要因として、同書はアヘン戦争後における治安の悪化を挙げているのですが、それとともに同書に次のような指摘がなされている点が私には印象的でした。


“既に箍(たが)のゆるんだ政治力が治警の目的を達し得ようとは考えられない。官憲頼むに足らずとすれば自己の安全を自らの力で守る他はない。北平の民間自衛結社はこうした空気の所産だった。”



(※1)博興胡同の案内板(下の写真)には、『光緒順天府志』の記載か紹介されているのですが、当記事では『京師坊巷志稿』の記事を使用しています。


(※2)本書によると、同善という組織の創立年代は明らかではないのですが、はじめ「大李紗帽胡同火神廟」にあったが、同治十三年に「王廣福斜街(現在の棕樹斜街)」に移し、光緒元年に柏興胡同に煖廠を経営する事になったが、そのため事業機関が二つに分れ、同年にそれぞれ同善水局(主に消防を担当)及び同善煖廠の看板を掲げたそうです。



以前、東京・神保町の内山書店で購入した今堀誠二著『北平市民の自治構成』。
表紙など、ずいぶん傷んでいたのですが、内山書店で手に取ってみたときには柄にもなく目に涙が浮かんでいました。

内山書店さん、ありがとう。私の宝物の一冊になっています。


著者の手書きの北京地図も添えられていたのには、感激しました。
同善などの民間自衛組織のあった場所が書き込まれている地図。

凸の上の部分(北側)が内城、下の部分(南側)が外城。



今堀誠二さんについて調べていたら次のような解説を見つけたので下に載せてみました。
ウェブ版・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) より


今堀誠二
いまほりせいじ
(1914―1992)
東洋史学者。大阪府生まれ。1939年(昭和14)広島文理科大学(現広島大学)史学科卒業。その後、中国、北京(ペキン)師範大学講師となり、中国の封建社会制度の研究を進める。1951年広島大学教授、のち広島女子大学(現、県立広島大学)学長となる。1949年広島平和擁護大会議長につき、原水爆禁止運動を積極的に推し進め、同運動の理論的指導者として、原爆の実態調査や広島大学平和科学センターの設立に尽力した。著書に『中国封建社会の機構』『原水爆時代』『毛沢東研究序説』『中国封建社会の構造』などがある。1992年10月9日没。


かつてこの胡同にあった民間自衛組織について書いてきましたが、現在分かる範囲の事ですが、昔この博興胡同には次のような施設もありました。出典は『昭和14年版 北支蒙彊商工名鑑』(日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)で、当時北京で暮らしていた日本人とも関係があったのではないかと思料し次に書き出しておきました。


保民醫院・・・博興胡同20号(番号は当時のもの)
大陸工廠(石鹸、蝋燭製造)・・・番号不詳
大陸和記(経営は中国人、氏名の記載もあったのですが省略。業種は石鹸製造)・・・番号不詳



いよいよ終点。


百鳥朝鳳という絵の西隣は、住所名が変わって棕樹斜街になっていました。


その斜交いは小学校。
名前は「北京市西城区・康楽里小学」(大柵欄校区)。


棕樹斜街沿いの西出入り口から見た東方向。


期待と不安のないまぜになった心地よい緊張感を携えての久しぶりの胡同歩き。玄関上の扁額に歴史の一コマを今に伝える「同徳」という文字の刻まれた住宅に遭遇。現場を自分の足で実際に歩いてみることの大切さを改めて思い知ることができました。そして、この胡同にかつてあった同善なる自衛組織についてのあれこれを教えてくださった『北平市民の自治構成』の著者・今堀誠二さんに感謝と畏敬の念をこめて、ありがとうございました。

×

非ログインユーザーとして返信する