北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第270回 胡同回憶・蘇州胡同(その4) 附・終戦期の北京一景

前回は昔、七賢里と呼ばれた胡同やその出入り口の前にある路地におじゃましました。


今回は、さらに東方向に進みます。




いつごろから採用されているのか分からないのですが、見るたびになぜか懐かしさがこみあげて来るトイレの看板。



そんなトイレの看板の前にあるのは、「中共蘇州社区委員会・蘇州社区居民委員会」


その斜交いには「紫石旅館」



辺りの空気を心地よく引き締める美しい屋根。


そして、一度見たら忘れられない、提灯と門扉の朱色。

蘇州胡同66号。紫石旅館。



紫石旅館の前には、ぜひ歩いてみたい路地がありました。


この路地にも「此路不通、請勿穿行」の貼紙。




玄関上の瓦で作った飾りを見るのが楽しい。




さまざまなデザインがあるので胡同を歩いた時に目が離せません。




通路に北京に欠かすことの出来ない大きなエンジュ(槐)の木がありました。


さらに狭くなる路地。




路地はさらに細くなりますが、もう少し行けそうです。

行き止まり。
住所は蘇州胡同75号。



もとに戻ってさらに東へ、と思ったのですが・・・


このへんで日本占領下の日本関係の店舗などをご覧いただきます。


北京みやげ屋・・・蘇州胡同68号
(文具など)
谷本履物店・・・蘇州胡同甲62号
昭和通商会社支店・・・蘇州胡同53号
(機械器具類輸出入)
大和ホテル・・・蘇州胡同48号
大阪東京朝日新聞支局・・・蘇州胡同42号
鶴屋旅館・・・蘇州胡同38号
北京日本書士会・・・蘇州胡同38号
妙法館・・・蘇州胡同27号
(旅館)
丸定・・・蘇州胡同27号
(美容院)


続きは次回です。


路地を出て南側には高齢者に優しい「東城蘇州社区養老服務駅站」


隣りに「海陽養老」とありました。


塀にこんな札が貼ってありました。
「街巷環境整治提昇公示牌」(一部加工あり)

違法建築、違法経営、違法広告、ゴミの捨て方などについて10のルールが書かれています。



さらに東へ。



こちらは「北京国際職業教育学校」



職業学校の前には素敵な路地があって、その奥には興味津々な洋館があるんですよ。





立てかけられたハシゴ。


ハシゴを上るとハト小屋



さらに奥へ。


こちらは蘇州胡同62号





丸窓



お宝発見!! 

年代ものの床タイル、こちらの心を鷲づかみ。

もし、この洋館を取り壊すようなことがあるならば、このタイルは
ぜひ首都博物館で保存していただきたいなぁ。




またまたお宝発見!!  
この洋館の魅力の精髄が凝り固まったような手すりと階段


裏口へ


ここにも床タイル


裏口を出て。



先に日本人関係の記事をご覧いただきましたが、日本占領下の北京にあった日本人関係の店舗などについて調べているとき、当時中国に進出していた「北支那開発株式会社」関連会社の社員のお一人が書いた終戦期の体験記事に出っくわしました。当時北京で暮らしていた日本人と北京の様子の一端でも垣間見ることが出来るのでは、と思い、次に二点ほど掲げてみました。掲載にあたり、見出しの一部を改めていることをお断りしておきます。


【終戦期の北京一景】


〇 終戦、アメリカ兵、中国兵の入城
終戦当時北京は、国民政府軍と中共軍の双方に囲まれていたが、十月末先ず米軍が北京に入場して来た。私達はそれを見に行ったが、私は先ず彼等が、日本式の威風堂々の入城ではなく、帽子を横っちょにかぶり、楽しげに口笛を吹いたり、我々に笑いかけながら、ヘーイなどと手を振ったりしながらやって来たのに、驚きかつ安心したのであった。又、それから暫くして、中国政府軍が入城するというので、これも見に行った。中央公園前あたりで待っていたら、今度は戦車を数十台連らねて、轟々と地軸をゆるがせながら、「威風堂々」とやって来たが、我々のすぐ近くまで来て小休止となった。と、私が自分の目を疑いながら見たのは、戦車の天蓋の上に頭を出している日本兵らしい姿だった。戦車が止まると、中から中国兵も皆出て来て、今は肩章をはずしてしまった日本兵に、タバコなどを勧めながら談笑しているではないか。思うに、中国軍は終戦で日本の戦車を接収したが、急にはこれを操縦出来ぬので、兵隊と一緒に引き取って「どうぞよろしく」ということになったのではあるまいか。(昭和五十六年十月一日発行『北支那開発株式会社之回顧』槐樹会編 非売品、槐樹会刊行会)


〇 国府ルートと中共ルート
華北からの引揚者の内、北京へ一旦集結して、待機してから帰った人々については、華北石炭本社としては一々その道中の模様を報告してもらい、華北一円の状況把握に努めたつもりであったが、その際、これまでの我々日本側の認識が、事実とあまりにも大きく喰い違っていたことを知って驚いたのである。終戦当時北京は国民政府軍と中共軍とで囲まれていたが、その他の各地は或は国府軍に、或は中共軍にそれぞれ占拠されており、日本人が北京へ向うに際し、最初のスタートが、国府地区か、中共地区かによって、北京へ着くまでズットそのどちらかのルートを辿って来たのである。そして、その人たちの一致した報告によれば、国府ルートで来た者は、或は万年筆や時計を取られ、或はなけなしの金、食糧などを取られ、全く着のみ着のままの哀れな姿で北京へ着いたのに対し、中共ルートで来た者は途中、或は弁当を与えられ、或は金を与えられ、一物も取られたりすることもなく、各部落を駅伝式に送られて無事北京に着くことが出来たというのである。中共軍については、戦時中我々はまるで鬼畜のように聞き馴らされてきたのに、事実はまるで正反対で、地獄に仏とはこのことである。「日本はビンタを喰わせ、国民政府は演説を喰わせ、中共軍はメシを喰わせる」という、誠に巧みな寸言が中国民衆の中に流布されていることを我々もよく耳にしたが、中共に関する限り、誇張のない事実であったことを我々は如実に思い知らされたのであった。(同上)




もとに戻り、さらに東へ。あと少しで蘇州胡同東端に到着です。

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