北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第301回 北京・錫拉胡同(後) ―坂西利八郎、東洋拓殖株式会社など―

今回も前回に引き続き、錫拉胡同(Xila Hutong/シーラーフートン)をご覧いただきます。





ゲートを通っていくと「便民店」というシンプルな看板が目に飛び込んできました。


便民店。
コンビニエンス・ストアー。


奥に入っていくと理髪店などがありますが、今回は省略です。


「便民店」の西隣は「金街小巷餐館(ジンジェシアオシァン・ツァングアン)」という食堂。


その西隣
河沿肉餅(ホーイエンロウビン)・Beijing Pie」という食堂。


このお店の「肉餅(ロウビン)」はなかなかイケルという評判。

店の前に椅子が積み上げられていました。
昼食時になると空席待ちの客が並ぶのだと思われます。


「便民店」や「河沿肉餅(ホーイエンロウビン)・Beijing Pie」という食堂の入っている建物の前は、アパート。錫拉胡同15号。

このアパート、もともとはどんなお屋敷があって、どんな人たちが暮らしていたのか?
興味深いところなのですが、機会を見つけて調べてみたい。



アパートの前を西方向にほんの少し進みます。




下の写真の建物は、錫拉胡同17号。


あまり大きな声では言えないのですが、こちらの17号について、かつてここには詩人の徐志摩が若いころに暮らしていたことがあった、という説があるのが興味深い。錫拉胡同に関する一つの記録として参考までにあえて取り上げてみました。



徐志摩(シゥ ヂーモー/じょ しま。1897年1月15日~1931年11月19日)


詩人、散文家。
1923年、新月社を創設。口語による詩作を行い、中国の詩の近代化に尽力。同人に胡適、梁実秋、聞一多などがいたそうです。



錫拉胡同17号の前辺りには「河沿春餅」というお店。
少し前にご覧いただいた「河沿肉餅(ホーイエンロウビン)・Beijing Pie」の姉妹店なのだそうです。


河沿春餅(ホーイエンチュンビン)・Beijin Roll
けっこうイケルという評判のお店です。


【昔、この胡同にあった中華料理店と女性用浴場】


食べ物屋さんの話題が出たので、昔この胡同にあった有名な中華料理店を次に挙げてみました。中国人はもちろんこと、当時北京で暮らしていた日本人や仕事や観光で訪れた日本人もよく足を運んだお店だったようです。


名前は、玉華臺(台)
中国伝統四大料理の一つ、淮揚菜(江蘇料理)を提供した店。
創立は、民国18年(1929年)。
得意な料理・・・沙鍋雞(鶏)、沙鍋豆腐、江米焼麥(麦)、新発明湯包、肴肉煮干絲。


ついでと言っては何ですが、この錫拉胡同内には、女性専用の公衆浴場がありました。


名前は、清華園
価格は、三角~六角。理髪部もあり、理髪刮臉均二角。


ちなみに、この女性専用の浴場は男性専用の公衆浴場「清華園」(住所は八面槽)の姉妹店。「八面槽」は現在の王府井大街における「灯市口西街」と「東安門大街」の部分の地名です。


しかも、女性専用浴場の「清華園」は上に挙げた中華料理店「玉華台」のすぐ斜め前にあったという情報もあるのですが、残念ながらこの点については勉強不足の私には断定できません。


上に挙げた「玉華臺」と浴場「清華園」についての出典は安藤徳器編『北支那文化便覧』(昭和十三年十月二十三日発行、生活社刊)。


下の地図の赤線内に「清華園」と見えますが、この「清華園」が女性用の浴場であったのか男性用のそれであったのかは不明。

この地図は、『最新北京市街地図』(東京アトラス社編纂、昭和十三年四月五日発行、複製)よりその一部をお借りしたもの。


次の建物は錫拉胡同19号
「北京市東城区衛生健康委員会」「第一幼稚園」「東城区錫拉胡同託児所」。

前回その名前を挙げた民国期の北京市(当時北平)市長・何思源(か しげん/1896年~1982年)はかつてこちらの錫拉胡同19号に暮らしていたことがあるそうです。(出典:『北京胡同志』(主編・段柄仁、2007年4月、北京出版社)


なお、やはり前回名前を挙げた甲骨文(甲骨文字)の発見者の一人・王懿栄(おう いえい/1845年~1900)が暮らしていたのは、この錫拉胡同19号の西隣の錫拉胡同21号。現在はアパートの一部。出典は同上。


こちらはレストラン「福慧慈縁素食餐庁

錫拉胡同20号

このお店は、はたしてどんな料理を客に提供しているのやら、気になるところです。


お店の脇にはこんな置物が置かれているではありませんか。






あとわずかで錫拉胡同も終点です。
この辺りで昔この胡同で暮らしていた日本人や昔この胡同にあった日本企業などを掲げておきたいと思います。


【昔この胡同で暮らしていた日本人やこの胡同にあった日本企業など】


▲愛齒齒科醫院・・・錫拉胡同5号(当時の番号、以下同)
創立・・・昭和15年3月。
この歯科医院は、華北交通、華北電々、中華航空、北支那開発その他大会社やお役所の指定医だったようです。創立者名、院長名は省略。
(出典)『中国紳士録』(満蒙資料協会、昭和17年5月25日第2版発行)


▲日華貿易株式会社・・・錫拉胡同甲8号
設立・・・昭和13年。
営業種目・・・綿織物、ラシャ、毛布、ガーゼ、脱脂綿、石炭、炭、米麦、雑穀、野菜、マッチ、機械工具、鉄道用品、軍需品、その他雑品。
(出典)『帝国商工興信録 昭和15年度版』(帝国商工興信社編纂、昭和15年10月15日発行)など。


▲株式会社 小郷為商店・・・錫拉胡同8号(日華貿易公司内)
営業種目・・・洋傘、卓布、毯
(出典)『昭和14年版北支蒙彊商工名鑑』(日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)


▲三浦公館・・・錫拉胡同8号
こちらは、三浦という名の工学博士で華北政務委員会建設総署技監が暮らしていた建物です。
(出典)『中国紳士録』(満蒙資料協会、昭和17年5月25日第2版発行)


▲東洋拓殖株式会社北京支店・・・錫拉胡同12号(東拓公館)
(出典)『ポケット会社職員録 昭和14年版』(ダイヤモンド社、昭和13年13日発行)など。


この「東洋拓殖株式会社」について、ウェブ版・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を見ると次のような解説があったので、次に掲げてみました。


《略称東拓。日本の朝鮮統治時代に朝鮮における拓殖資金の供給および拓殖事業を目的とした半官半民の特殊事業会社。日本政府の植民地政策に協力しながら,拓殖事業に必要な資金の融資,水利事業,土地取得および土地の経営管理,移民の募集および移民のための建物の建造販売など広範囲にわたる事業を行なった。 1908年東洋拓殖株式会社法に基づき日本,朝鮮両国からの出資によって京城に設立されたが,10年の日韓併合以後は資本金を増額していくとともに株主は日本人に限られることになり,17年本社も東京に移された。その間に朝鮮電力,朝鮮鉄道,東拓鉱業,鮮満拓殖,東洋畜産など 52社の経営に参加,また満州,モンゴル,中国,フィリピン,南洋諸島,マレー半島にまで事業地域を広げるなど規模の変動はあったが,38年間朝鮮経済を支配した。第2次世界大戦の終結とともに解体され,その資産は北は朝鮮民主主義人民共和国政府が,南はアメリカ軍政庁から払下げを受けた新韓公社が,それぞれ受継いだ。》


▲兵站部指定旅館・蔦谷ホテル・・・錫拉胡同19号
(出典)『帝国商工興信録 昭和15年度版』(帝国商工興信社編纂、昭和15年10月15日発行)など。


▲坂西利八郎(ばんざい りはちろう/明治3年12月16日~昭和25年5月30日)
軍人、のち貴族院議員。中華民国大総統の軍事顧問などを体験した、いわゆる「支那通」と言われた人物。


【坂西利八郎の略歴】
明治3年(1830)12月16日。和歌山県生。
日清戦争に際し明治28年(1895)1月出征。威海衛総攻撃の日栄城湾に上陸、水師営に駐屯。


明治35年(1902)4月、支那公使館附武官・青木宣純の補助官に任ぜられる。


明治37年(1904)1月立花小一郎のあとをうけて袁世凱直隷総督の兵書翻訳官となる。同2月、日露戦争に出征。戦後再び兵書翻訳官となり、明治41年まで兵書翻訳官を勤続。この年の4月に帰朝。


大正元年(1912)8月中華民国総統府顧問となる。袁世凱の死後、大総統を継いだ黎元洪(れい げんこう)、馮国璋(ふう こくしょう)、徐世昌(じょ せいしょう)、(再)黎元洪、曹錕(そうこん)、段祺瑞(だん きずい/臨時執政)の7代にわたって軍事顧問を勤める。


昭和2年(1927)4月から昭和21年5月まで貴族院議員(勅選)。


昭和25年(1950)5月30日死去。


(出典)『最新支那官紳録』(大正7年8月20日発行、支那研究会)。『議会制度70年史』(昭和35年12月発行、衆議院・参議院編、大蔵省印刷局)など。


【錫拉胡同に坂西利八郎が暮らしていた時期とその住所番号】
坂西利八郎が錫拉胡同で暮らしていたのは、大正7年(1918)(※1)からだったことは分っているのですが、ならばいつまでこの胡同で暮らしていたのかということになると不明瞭な点(※2)があるので、ここではとりあえず上の略歴で記したとおり彼が貴族院議員になる昭和2年の初め頃までとしておきたい。


住所は、錫拉胡同12号(当時※3)


【坂西利八郎が錫拉胡同以前に暮らしていた場所】
坂西が錫拉胡同で居住する前に暮らしていたのは、東単の三條胡同(※4)。残念ながらその番号は不明。


(※1)たとえば『北京日本居留民会資料1』の「社団法人北京日本居留民会会員及役員名簿(大正七年十二月末日現在)」には坂西利八郎の住所として錫拉胡同と記されている。ちなみに当時、軍人の岡村寧次(1884年~1966年)が錫拉胡同の「坂西公館」に居住しているのが興味深い。


(※2)『議会制度70年史』によると坂西が議員になるのは昭和2年4月からということになる。しかし、たとえば昭和2年7月11日の官報には、坂西が「北京日本居留民会」の理事に「昭和2年6月1日」に就任したことを示す記事が載っていて、しかも、坂西が理事を辞めるのはやはり官報の記事によると昭和3年6月5日(昭和3年8月30日の官報)のことである。もし坂西がこの官報の記事どおりに行動していていたとすれば、坂西は昭和3年まで錫拉胡同で暮らしていたことになる。


(※3)たとえば官報の大正13年(1924年)7月2日の「法人登記」を見ると、坂西が北京日本居留民会の理事に就任した時の住所が載っており、そこには「北京東城錫拉胡同十二号」とある。また、さきに掲げた「東洋拓殖株式会社北京支店」の住所も錫拉胡同12号(東拓公館)となっている。ひょっとすると、この「東拓公館」という建物はもと坂西利八郎などが暮らしていた「坂西公館」だったのかもしれない。


(※4)『北京日本居留民会資料1』の「社団法人北京日本居留民会会員及役員名簿(大正二年四月末日現在)」には坂西利八郎の住所として(東単牌楼)「三條胡同」と記されている。「大正三年五月十日現在」とある名簿には坂西とともに軍人の土肥原賢二(1883年~1948年)の名前があり、その住所が坂西と同じ「三條胡同」、しかもその電話番号(東1455)も同じで、当時土肥原賢二が坂西宅に身を寄せていたことが分る。


【坂西利八郎に関するエピソード】


特別任務に参画
坂西利八郎に関するエピソードを一つ紹介しておきたい。それは、たとえば『烈士横川省三』松島宗衛著、昭和3年10月5日発行、盛岡烈士横川省三銅像建設会)などに「特別任務の計画案は青木大佐の命により私が筆を採って立案したのでありました、筆を下すと同時に、既に横川其他志士の運命は定まれりと言ふも不可ない次第でありました」(「陸軍中将貴族院議員坂西利八郎氏談片」)とあるように、坂西が日露戦争に際して組織された「特別任務班」の計画や編成に参画していることだ。


その特別任務班の“任務”は、ロシア本国から中国東北地方へ軍隊、兵器、糧食などの軍用品を輸送するための重要な交通手段たる「東清鉄道」(当時の名称)などを破壊し、敵の軍事力を減殺するというものでした。


任務班は六つの班に分かれていたのですが、その任務の一端を紹介すると次のようなものでした。


一、第一班は(北満)海拉爾(ハイラル)に向かい同地付近の東清鉄道線路及び鉄橋を破壊し、更に敵軍兵站線を撹乱することに奮躍すべし。
一、第二班は(北満)斉々哈爾(チチハル)を目的地と定め、同地付近の東清鉄道及び鉄橋を爆破し、さらに同停車場及び工場兵舎などを焼却せしめ、且つ支那人間に排ロ宣伝を行い、全力をあげて敵の後方を擾乱せしむべし。
(以下略)


横川省三と飲んだこと
この特別任務に参加した一人に横川省三(※1)がいるのですが、坂西は横川について次のように書いています。


《私は横川君とは最も親しく交際し、私の飲む処必ず横川あり、横川の飲む処必ず坂西在りと言はるる位い、能く飲み能く笑ったものでありました。我々両人は別に込み入った議論を為すでもなく、唯だ盃を乾しては笑ひ、酒を飲んでは笑ふのでありました、笑ひながらも両人の用事は如何なることでも立派に為し遂げられたのであります。出征の際にも「坂西さん往くよ左様なら」と別れの言葉丈けで莞爾として笑ひながら出て往ったのでありました、私も亦「往き玉へ左様なら」と言った丈けで笑ひながら門まで見送りました。実に横川位い気持ちの好い毒気のない男は珍しいと思っております。》(同上)


引用中に「出征の際にも「坂西さん往くよ左様なら」と別れの言葉丈けで莞爾として笑ひながら出て往ったのでありました、私も亦「往き玉へ左様なら」と言った丈けで笑ひながら門まで見送りました。」とありますが、『烈士横川省三』の「特別任務班の出征」にはそのときの様子がやや詳しく書かれており,坂西と横川が最後に飲んだのは、明治37年2月10日夜から翌11日午前3時頃までで、場所は「東単牌楼三條胡同西口路南の記者某宅」だったそうで、横川が特別任務のために北京を離れたのは、同年2月18日(一説に21日)でした。


横川省三が通った料亭・長春亭
上掲の『烈士横川省三』には、横川が北京在住時代によく通っていたという料亭「長春亭」の女将の言葉も紹介されているので、次にその一部をあげてみたい。
《忘れもせない二月初めでありました。「女将一寸旅行して来るから借金を置いて往く」とポーンと投げ出された状袋に御金が沢山這入って居ました。勘定して見ると五十円丈り余分に入れてありました。横川さん待って下さい、一つ別盃を差し上げたいからと門口に飛び出しましたが、もー横川さんは馬を走らせて姿も見えませんでした。》


官報などで調べたところ、長春亭が北京で開店したのは、明治34年10月、場所は北京東単牌楼三條胡同。明治39年に崇文門内羊肉胡同に移り、その後、東城西観音寺胡同に移転(※2)。


横川省三が特別任務をおびて出征したのは明治37年2月なので、横川が最後に訪れた時、長春亭は三條胡同にありました。


(※1)横川省三について
次に掲げる解説は国立国会図書館の電子展示会・「近代日本人の肖像」よりお借りしたもの。


生没年
元治2年4月4日 〜 明治37年4月21日
(1865年4月28日 〜 1904年4月21日)
出身地
岩手県
職業・身分
ジャーナリスト
解説
父は盛岡藩士。自由民権運動に投じ、加波山事件に連座して禁錮。明治23(1890)年東京朝日新聞社に入社、郡司成忠の千島探検の特派員、日清戦争では従軍記者となる。のち清国に渡航して北京の東文学舎に入る。日露戦争前に軍事探偵として諜報活動に従事、37年日露戦争勃発後、沖禎介らとともに満洲に入り、鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で銃殺。


(※2)長春亭について
『日本都市大観 昭和15年版』(大阪毎日新聞社編、昭和15年2月6日発行)に長春亭についての紹介記事が載っていたので参考に次に書き写してみました。
「北京市の食通にその名を知らぬものなしといはれる長春亭は、その昔より当市の名物に数へられる北京最古の料亭である。」
「場所は北京市目貫の繁華街なる西観音寺胡同に君臨し、その古い歴史と長い信用は、幾多同業者の一朝一夕に模倣し得ないものである。」
「古今東西を問はず料亭の客を呼ぶ所以のものは、一に板場の腕を誇る料理の美味と、また一には御客本位の行届いたサービスの醸し出す床しい情緒の匂ふ気分によるものである。」



今回、錫拉胡同をきっかけとして、北京に居住していた時に三條胡同や錫拉胡同で暮らしていた坂西利八郎という人物の存在を知り、彼について調べているうちに坂西という人物がある意味で興味深い人であることを知りました。


彼の周囲には軍人で対中国工作に従事した土肥原賢二、やはり軍人の岡村寧次などの姿が見えるほか、今回は触れませんでしたが、彼が袁世凱の軍事顧問のころの周囲には:血盟団事件の井上日召(本名井上昭)もいたことがあったのです。坂西という人物は、北京で暮らしていたとき、いったいどのような仕事に従事していたのか、そんな疑問が心の底から湧いて来ました。


生きていると謎が一つ一つ増えていく。謎が増えるのは面倒ですが、それを解くのはそれ以上に面白い。今回、北京・錫拉胡同(Xila Hutong/シーラーフートン)を歩いたお蔭で、坂西利八郎という謎がひとつ増えたことはありがたい。


レストラン「福慧慈縁素食餐庁」の西隣

角度を変えて


上の建物の前。
靴の修繕屋さんとお客。


修繕屋さん沿いにあるのはアパート。

アパートを西方向から東方向を撮っています。写真奥に見える赤いパラソルは、靴の修繕屋さん。


いよいよ錫拉胡同も終点です。


終点、東黄城根南街から錫拉胡同の東方向。


上の写真の右手に見えるのは公共トイレ。


東黄城根南街の北方向。


こちらは東黄城根南街の南方向。


再び、東黄城根南街から錫拉胡同の東方向をご覧いただきます。

×

非ログインユーザーとして返信する