第271回 胡同回憶・蘇州胡同(その5) 附・終戦期の北京一景
いよいよ蘇州胡同も残りわずか。
今回もいろいろなお宝に出会えますように・・・。
こちらは蘇州胡同52号
東隣に移動すると、看板が玄関内に置かれているのか妙に気になってしまった謎の「旅館」。これでは通りから見えづらいんじゃない?
その名称のあまりのシンプルさも気になってしかたがない「旅館」という看板。
それに対して、目を北側に移すと、ドーンと蘇州胡同61号。
先ほどの旅館の看板とはスケールが違います。
歩くお宝発見!
散歩中のワンちゃん
「オジサンどこから来たの? わたしはお散歩中だワン、デヘへ」
「オジサンも散歩中だよ。デヘへへ」
ワンちゃんやニャンコはいつ会っても何処で会ってもお宝です。
三階建てのアパート。
蘇州胡同48号。
さらに東へ
写真左に見える建物は、先ほどご覧いただいた蘇州胡同61号の一部。
こちらは首都建設報。蘇州胡同61号。
その斜交いには路地があって、奥には香り高い立て札が・・・。
ゲート脇に立て札。
「此院不通! 到此止歩」(44号院)
なかに入ると、香り高き注意書き。
厳禁大小便
これは3年以上前の写真。現在は貴重な「注意書き」になっているかも。
ちなみに、こちら蘇州胡同44号は、かつて平津路局の宿舎(社宅)だったことがあるそうです。中国のサイト「環京津新聞網」(2019‐07‐08 11:24)「蘇州胡同」に関する記事中の北京档案館・王兰順さんの言。
やりました、お宝発見!!
屋根の上に突出した壁
断定は出来ませんが、これって火災のとき延焼を防ぐための壁、火除け用の壁かな?
北側の路地。
南側にも路地。
こちらは「中鮮魚巷」。
左側は立体駐車場。この時はまだ建設工事中だったような。
清真・蘇州回民飯館
ドアに「羊肉の串焼き」を提供していることを示す「串」をかたどったネオンサイン。
冷えたビールのお供・羊肉の串焼きを演出する絶妙な小道具。
夜になると赤い明かりが点灯、道行く人たちを誘惑する憎い奴。
帰りに立ち寄ってみたいと思います。
ここで回民関係の記事を一件。
いつ消失したのか不明ですが、蘇州胡同には清真寺(モスク)がありました。おそらく、(後述の)胡同の一部の消失と同時といってよいかもしれません。
住所は蘇州胡同路北7号。
これは回民関係ではないのですが、今は無き「会館」の事。
これもいつ頃消失してしまったのか未確認なのですが、中華民国23年に発行された地図の欄外には、忻定会館という山西省の会館名が掲載されていました。
その隣りはコンビニ。
正面に見えるのは、クルマの量が増えたために設けられたゲート。
南側にあるホテル
国機快捷酒店・・・蘇州胡同30号。
未確認なのですが・・・いわゆるラストエンペラー・溥儀さんが1959年12月に撫順戦犯管理所から釈放され、その後一時その身を寄せていたのがこの宿泊施設だったとか。中国のサイト「環京津新聞網」(2019‐07‐08 11:24)「蘇州胡同」に関する記事中の北京档案館・王兰順さんの言。
ホテルの横に路地。
この路地の名前は公平巷。
ちなみに、この「公平巷」は昔「公平当(當)」と呼ばれていました。
いよいよ蘇州胡同東端に到着。
横切っているのは郵通街。北京駅がすぐ近くです。
現在、その東端は郵通街になっていますが、民国期の地図を見ると、蘇州胡同はさらに東方向へ走っており、東端が現在の北京站街にあったことが分かります。下の地図の赤線矢印の部分。
民国期に発行された地図。
赤い矢印は蘇州胡同の西端。青い矢印は「公平当」(今の公平巷)。赤線円内に見えるのが今は消失してしまった部分。赤線円の右端から北に走っている鬧市口(ナオシーコウ)とあるのは今の北京站街です。
「清真・蘇州回民飯館」に引きかえし、店内に入るとこんな人形がお出迎え。
ビールに羊肉串!!
誘惑に負けそうになったのですが、帰りのバスや地下鉄で寝てしまうといけないので、グッとおさえて、この日は牛肉麵(面)。
歩いているときは自覚がなかったのですが、腹が減っていたようです。
あっという間に、ペロリ。
結びにかえて
ここで日本占領下の蘇州胡同にあった日本関係の店舗などをご覧いたたきます。
番地は現在のものではありませんので、ご注意を。
長順公(油、酒、酢、味噌など)・・・蘇州胡同21号
豊島商店出張所(各種糸布)・・・蘇州胡同15号
北方印刷所・・・蘇州胡同12号
福成泰(乾物、果物、食料、雑貨)・・・蘇州胡同9号
裕昇行(電料、電気器具)・・・蘇州胡同5号
山田洗衣局(洗濯、染物)・・・蘇州胡同5号
もう一店舗。
これは、蘇州胡同の西口にあったもの。おそらく崇文門大街に面していたお店の一つかと思われます。
隆華洋行(洋品、雑貨)・・・蘇州胡同西口
次に終戦期の北京一景をご覧ください。
前回に続き、当時の国策会社だった『北支那開発株式会社』関連会社社員の方がお書きになった貴重な記録です。終戦当時の北京や北京で暮していた人たちの様子の一端を知ることができるのではないでしょうか。
【終戦期の北京一景】
〇 別れを惜しんで呉れた北京人たち
北京の中国人たちは終戦後も日本人に対して全くその態度を変えなかった。店へ買物に行っても前と全く同じで、家族が北京にいた頃行きつけていた理髪店、肉屋などでは「ダンナ、太々(タイタイ、奥さんの事。引用者)や小孩(シャオハイ、子供)たちは日本でどうしているだろうねぇ、日本へ早く帰したのは失敗だったと思うョ。何とかもう一度北京へ呼び戻して、ダンナもこちらで暮しなさいよ。北京はこんなに平穏で、何でもたくさんあるし、日本は食糧など足りなくて大変だと言うではないか」などと言って、ホロリとさせられた。又、ある日、支那服を着て、中国人になりすまして街を歩いていたら、もと家で使っていた中国人の爺さんが走り寄って来て、涙を流して私と無事再会を喜んで呉れ、家族のことなど色々尋ねたりして、大変なつかしんでくれた。又、公館(※)の近くにスラム街の様な一角があって、そこの子供達がよく遊びに来たが、引揚げ準備で要らなくなった物など持たせて帰らせると、あとでお婆さんが手作りの食べ物など持って礼に来て、「日本に帰らずにいて呉れ」などと、たとえお世辞にもせよ嬉しいことを言ってくれたりした。いよいよ出発の前日、謝某と言う国府系の報道機関の大物らしいのが、多勢の家族連れで私の家へ移転して来たので、私は一室に退いて、彼に明け渡しをしたのだが、彼は手違いで一日早く来てしまったことを大変済まないと言って謝まり、私のこれからの食糧や金のことまで何かと親身になって心配して呉れるのだった。
翌朝早く、百人余りで一四七中隊と呼ばれる一隊を作って、私の家の前からトラックで出発することになったのだが、その人等を親交のあった中国人や近所付き合いをしていた中国人達が、早朝にもかかわらず多勢見送りに来て、涙を流して別れを惜しみ、口々に「一路平安」(イールピンアン、ごぶじで)とか「再見、再見」(ツァイチェン、ツァイチェン、さようなら)とか言って手を振って呉れた。この光景は西直門(※)で他の多くの隊と合流して出発するときも同様であった。(昭和五十六年十月一日発行『北支那開発株式会社之回顧』槐樹会編 非売品、槐樹会刊行会)
※「公館」・・・この場合、社宅を指し、この記事を書いた社員の方の場合、その社宅は「象鼻子胡同」にあったそうです。
「象鼻子胡同」とは、上の民国期の地図の赤線円内に「象鼻子後坑」「象鼻子中坑」と見える一帯で、現在は一部を残し、ほとんど消失している。「第265回 胡同回憶・新開路胡同 (前)」で少しご覧いただいた「春雨胡同」のすぐ近く。「象鼻子胡同」の地名の由来として、象の鼻に似た池や坑(あな)があった、あるいは、かつて象の飼育場があったとの説がある。
※「西直門」・・・引き上げの際、北京で暮していた日本人達はいったん西直門に集合、その後列車で港のある天津の塘沽(タンクー)へ移動し、ここから船を利用して日本へ戻った模様です。
このブログ記事は、以前「gooブログ」(現在中国からはアクセス不可のため私自身閲覧出来ず)で書いた記事の増補改訂版であることをこの場を借りてお断りしておきます。
【ご報告】
門墩(メンドン)研究家・岩本公夫さんのウェブ版『中国の門墩』をご覧ください。
門墩について分かり易く解説されたお宝サイト。
https://mendun.jimdofree.com/