第267回 胡同回憶・蘇州胡同(その1)
蘇州胡同(SuzhouHutong/スウジョウフートン)
崇文門内大街沿いの蘇州胡同の西出入口に入って少し歩き、突き当りを左折、そしてさらに少し歩いた右側には石碑のような立派な案内板が置かれていました。2018年11月下旬。
テラス付きのこんな洋館が蘇州胡同にはあったわけで、この先どんな出会いがあるか
楽しみ。
少し進むと、蘇州胡同と書かれた、まるで石碑のように立派な案内板が訪れる人々を
迎えるかのように姿をあらわしました。
牌楼と路面電車の取り合わせが印象的な絵柄。1924年7月下旬から北京の街を路面電車が走るようになりました。「蘇州胡同」という停留所もちゃんとありましたよ。
それはそうと、その背面には「蘇州胡同的歴史由来」が刻まれていました。
詳しい事は、上の案内板にゆずり、以下にわたしなりの簡単な解説を。
元末から明初にかけて北京は戦乱で荒廃。
荒廃した北京復興のため各地から多くの人々が集められました。
その中に蘇州人がいたわけですが、彼らが集住した場所が蘇州胡同の由来だったとか。
蘇州といえば運河の美しい街としても著名ですが、当時北京にやって来た人々の中には蘇州の富裕層をはじめ、宮殿の建設や運河関係の仕事に従事する専門家や職人さんたちがいたようです。
ちなみに、この胡同の近くには洋溢胡同(もと揚州胡同)、西鎮江胡同、東鎮江胡同などの胡同があるのですが、蘇州胡同を含め、いずれも江蘇省に属していることが特徴です。
蘇州人をはじめ、多くの南方出身の人たちが北京復興発展のために大いに活躍、その力を発揮したと言って良いのかも・・・。上に紹介した案内板の立派さにはそうした蘇州人たちを顕彰する意味が込められているのかもしれません。
本来ならば東口から歩きたかったのですが、当日は案内板の所からスタートです。
こちらは134号院。
わきを見るとスズメたちがチュンチュンと歌をうたいながら餌を食べたり、水を飲んでました。晩秋から初冬にかけての長閑な胡同一景です。
わたしもついつい「チュンチュン」と声をかけてしまいます・・・。
時代はいつ頃なのか不明。立派な洋館、というより、おそらく昔の職人さんたちが見よう見真似で「らしく」懸命に造った洋館。
角度をかえて撮ってみました。
建物わきに路地。もちろん入りましたよ。
立派な路地。
可愛らしい外灯。
126号院。
こちらは124号院。もちろん、前進。
奥が深そう。
まだ行けそうです。
途中省略。
はじめにご覧いただいた洋館の裏は想像以上にその敷地が広く、奥行きが深い。
予想外の展開に感動してしまった。
やっと行き止まり。
もとに戻ると、可愛らしい胡同用の消防車。
只今、パンク中。
立派な洋館といえば、日本占領下のこの胡同内には「東方印書館分館」という書籍、洋品雑貨を扱う店舗があったそうです。住所は蘇州胡同155号。ただし、番号が現在のものと一致しているかどうかは未確認ですので、ご注意を。以下同じ。
昭和56年10月1日に発行された『北支那開発株式会社之回顧』(非売品)という本の中には、この「東方印書館分館」のことが書かれていたので次にその一部を写してみました。ただし、人名部分は〇〇などに改めました。ちなみに「北支那開発」は昭和13年11月7日に設立された当時の国策会社で、文中の「私」とは社員のお一人。
“その頃、私は西四(シースー、北京の西側にある地名)を出て東単蘇州胡同の東方印書館に寄宿していた。東方印書館というのは、〇〇(「私」の友人)の父〇△氏が経営しておられた中国語学習書の出版社であって、三階建の広い洋館に、〇〇が才色兼備の二人の姉君と住んでいたので、私は△△と◎△と共に厄介になったのであった。この東方印書館のサロンが、私にとっては文化サロンとなったのである。”
三階建の広い洋館。おそらくかなり立派な洋館だったのでは・・・。
こちらは122号。
いたいたしい門墩(メンドン)。
門墩は貴重な文化財です。
蘇州胡同118号。
正面奥に洋館がありました。
もちろん、おじゃましました。
左側に出入り口。
この118号院もかなり敷地が広い。昔はどんな方が住んでおられていたのか。
ニャンコと目と目があって、驚いてしまった。
ニャンコが「驚いたのは、こっちだニャン」と言ってましたよ。
さらに前へ。
左手に路地。
近くで見ると、昔はかなり立派な建物だったのではと思われます。
窓の下の欄干。おそらく窓枠は後から取り付けたものではないかと思われます。
洋風欄干の下に並ぶ「垂花木眉」。ここは華洋折衷の建物でした。
昔、この華洋折衷の建物の前には中庭が広がっていたのではないでしょうか。
もとに戻ります。
前方からニャンコ。
その面構えといい、のっしのっしと歩くその歩き方といい、いかにもこの胡同のボスと
いった趣です。
こわもてですが、とっても人懐っこいニャンコでしたよ。
この胡同の室外機。カバーに注目ですかね。
名前は不明ですが、食堂がありました。
メニューの一部。
前を横切る通りを右折すると「南八宝胡同」。左折すると昔は「延壽庵」と
呼ばれていた通りで今は蘇州胡同の一部。
日本占領下にはこの延壽庵に日本の店舗がありました。
名称は「睦商会」、住所は蘇州胡同延壽庵4号。工作機械、工具を扱っていたようです。
左に見えるアパートは蘇州胡同101号で、次回紹介させていただく予定です。
なお、南八宝胡同は、昔はただの「八宝胡同」と呼ばれ、しかも、内一区には八宝胡同という地名が三箇所もありました。時代が下って「東八宝胡同」「西八宝胡同」「南八宝胡同」と名称変更されています。
また、1931年に書かれた資料によると、蘇州胡同、鎮江胡同、洋溢胡同、八宝胡同(現在の南八宝胡同)などの胡同は中国人並び外国人の私娼(暗娼)出没地帯で、私設の妓館などもあったそうです。
小さな公園があり、健康増進のための器具などが置かれていました。
これはゲーム。脳を活性化し、健康維持と増進をはかります。
こちらは106号。
看板は出ていないのですが、お店です。
先に日本の企業「東方印書館」のことを記しましたが、この胡同には、次のような日本関係の店舗や旅館がありました。100番台の店舗を紹介させていただくと次のとおりです。
五新公司(建築材料)・・・蘇州胡同133号
泰冶洋行(?)・・・・蘇州胡同133号
福井旅館(旅館)・・・・蘇州胡同132号
南洲館(旅館)・・・・蘇州胡同107号
さらに前へ。
右側に路地。
二層のアパートらしきものがありました。蘇州胡同102号。
階段を上るのは後回しにして、さらに先へ。
通路に冬の風物詩・美味そうな白菜が。
こちらは蘇州胡同98号。
もう少し奥へ行くと、蘇州胡同100号。
階段のところに戻り、上がってみました。
踊り場のところから東方向をパチリ!!
落葉した木々の上に北京の晩秋から初冬にかけての青空が広がっていました。
次回につづきます。