第275回 胡同回憶・小報房胡同(その1)
小報房胡同(XiaobaofangHutong/シアオバオファンフートン)
清代の乾隆15年(1750)頃に描かれたといわれる北京城の地図――乾隆京城全図を見ると、
当時は「報房胡同」と呼ばれ、その後、頭に「小」がつき「小報房胡同」(たとえば清末・朱一新編纂の『京師坊巷志稿』)となり、その名称が現在まで受け継がれています。
当日は南八宝胡同沿いの東出入り口からおじゃましました。2018年5月。
写真左手に「海友酒店」という宿泊施設。
もともとは「外文書店」の招待所。
この「海友酒店」は2014年10月におじゃました時は「招待所」という看板が出ていました。
下の写真の右上が「招待所」という看板。
写真奥を横切るのは南八宝胡同。
2018年当時に戻り、さらに前へ。
こちらは小報房胡同1号院。
前方に見える人だかりは、下校するお子さんを迎えに来ている関係者たち。
こちらは小報房胡同3号院。
立派な門鈸(メンボー。門環メンファンとも/ドアノッカー)がありました。
昔は身分によって材料や形状に違いがあったそうで、たとえば、宮殿や王府では銅製で、
龍頭や獅子頭。平民は鉄製で無飾だったとか。
「吉祥」という文字が書かれた門簪(もんさん)が印象的でした。
門をくぐり、奥へ。
こちらはよく見かける門環。
門環と「LETTERS」と刻された郵便受けの取り合わせが独特の雰囲気を醸し出しています。
門扉の脇に、こんな素敵な牛乳箱がありました。
頭のてっぺんからつま先まで電気が走りましたよ。
「京世康乳品」。この会社、どうも現在はないようです。
「北京市東交民巷小学」。
もとは1949年成立の「北京鉄路分局北京鉄路職工子弟第一小学」、略して「北京鉄路第一小学」という小学校でした。
こちらは分校で、本校は旧使館区の東交民巷にあります。
ゲートの脇に「中央戏剧学院」と刻されたプレート。
「戏剧(シージゥ)」は「戯劇」と書き、演劇のことで、著名な演劇学校です。
さらに前へ。
どうしても確認したい建物があるので急ぎました。
見えてきました。
ひょっとしたら取り壊されてしまうかも・・・と心配していたのですが、無事でした。
小報房胡同21号院。
無事なのは良かったのですが、様子が変わっていました。
何か素敵だなぁと思いながらカメラのシャッターを押したのは2014年の秋のこと。
当時この洋館は、外壁が剥げ落ち、いつ取り壊されるかわからない、そんな危うい表情
をしていました。
いつ頃この建物が建てられたのかは不明ですが、おそらく民国期当時の大工さんが、実物の洋館を真似て懸命にお造りになったのではないでしょうか。
中華民国期、国民党の北平憲兵19団の駐屯地、新中国が成立した1949年以後、外貿部の宿舎として使用されていたと言われています。現在は一般アパート。
洋風と華風が共存した玄関。
門墩(メンドン)
土台の部分が痛々しくも切断されていますが、よく生き延びてくれました。
正面
上面
正面
上面
門墩(メンドン)に興味のある方は、門墩研究家・岩本公夫さんの
ウェブ版『中国の門墩』をご覧ください。
門墩について分かり易く解説されたお宝サイトです。
https://mendun.jimdofree.com/
なかに入ります。
中庭側から建物のレンガ壁を撮ってみました。
レンガの色の美しさに見とれてしまった。
実際はもちろん柔らかくはないのですが、人の眼差しをはじき返さない柔らかさを湛えたレンガ色。
中庭一景。
見上げると、聳え立つ内蒙古大厦(ビル)。
レンズを右側に移動すると、気になる洋風の建物がありました。
この建物はいったい何かな、ぜひ見たい、もっと接近したい。
そこで
「行かなくっちゃ、突撃~ッ!」
とばかりに急いで玄関に戻ると、女性がひとり、静かに腰掛けておられました。
下校するお孫さんを迎えにいらしたそうです。
下校する子供たちを温かいまなざしで見つめるおばあちゃん。
この年季の入った洋館の玄関は、今は下校するお孫さんと迎えに来たおばあちゃんとの絶好の待ち合わせ場所になっています。