北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第295回 北京・霞公府街(増補版) ―附・昔あった日本企業や店舗など―

お知らせ
当記事中の「支那語同学会」についての情報を追加しました。(2023年6月3日)


霞公府街(Xiagonfu jie/シアゴンフジエ)


東京でいえば銀座通りの横町、と言ったところでしょうか。
今回は東長安街沿いにある北京飯店の裏、王府井大街(ワンフージンダージエ)沿いにある霞公府街(Xiagonfu jie/シアゴンフジエ)におじゃましました。2023年5月22日。




こちらは上の建物の西隣・北京飯店の旧館です。

写真は省きますが、上の建物のさらに西隣には「北京貴賓楼飯店」というホテルがあります。


下の地図の青線部分が霞公府街。


当日は王府井大街沿いの東出入り口から歩き始めました。



霞公府街東出入り口から西方向。


北京飯店。



北側角のショッピングモール「新燕沙金街購物広場(BEIJING MALL)」

当日は一部改装中。




少し進むと胡同牌ならび説明板らしきものが眼に飛び込んできました。

気を付けないと見逃してしまいますね。


霞公府街の胡同牌


霞公府街の説明板


〇まず、清の第11代皇帝・光緒帝の時代(在位1875~1908)、理藩院後胡同(リーファンユエンホウフートン)。


南側に「理藩院」があり、そのうしろ側に位置している事から、理藩院後胡同と呼ばれたそうです。


理藩院について
清の第2代皇帝・太宗(ホンタイジ/在位1626~43)の内モンゴル征服の際に設けられた“蒙古衙門”を改編し、崇徳3年(1638)に発足した中央官署。藩部(モンゴル、青海、チベット、新疆の総称)を統轄。ロシアとの外交、通商も担当。


理藩院は、いったいどこにあったの? 
たとえば、下の「清北京城街巷胡同図  :乾隆15年(公元1750年)」という地図を見ると、現在の北京飯店の西側寄りの一帯がそうだったのかなと思われます。

上の地図は『北京胡同志 上』(主編・段柄仁、2007年4月発行、北京出版社)所収のものの一部をお借りしています。


〇次の清朝最後の皇帝・宣統帝の時代(在位1908~1912)に、霞公府と改称。
この「霞公府」という言葉は、清の朱一新(1846~1894)撰『京師坊巷志稿』に「霞公府即理藩院後胡同」と登場しています。


〇次の民国期から新中国成立後の1965年まで霞公府


〇1965年の地名整頓時に霞公府街となり、現在まで続きます。
ちなみに文革中に一時「人民路頭条」と改称されたことがあったそうです。


名前の由来などについての説明はこの辺できりあげ、次へ進みます。
下の写真は先ほどご覧いただいたショッピングモール「新燕沙金街購物広場(BEIJING MALL)」の南出入り口。


次は西隣にある「北京飯店国際会展中心・BEIJING HOTEL INTERNATIONAL CONVENTION CENTER」。

こちらにも北京飯店の施設のあることを今回初めて知り、驚きです。


北京飯店の裏口がありました。



北出入り口の前をさらに西方向へ。


北京飯店旧館の裏側です。


次の写真の建物は「霞公府」という名前のマンション群の一部。「霞公府」と名付けることでこの物件に付加価値をつけようとしているのでしょうか。

上のマンションの東側を走っている通りは「王府井西街」。写真は省きますが、このマンションの東側には「北京万豪行政公寓」というマンションがあります。


ここでさらに西方向に進み、霞公府街と晨光街という通りが交差する地点辺りから東方向を撮ってみました。

向って左方向は晨光街。右側の建物は北京飯店。右の建物のゲートにも霞公府街の胡同牌と説明板が設けられていたので写真を撮っておきました。この辺が「霞公府」西口ということなのでしょうか。


霞公府街の胡同牌


霞公府街の説明板


さらに西方向へ少し進み、南河沿大街沿いから東方向を撮ると、こんな感じです。

向って右側の建物は「北京貴賓楼飯店」中国民生銀行。向って左側の建物は「UrCove―by HYATT―逸扉酒店」というホテル。


中国民生銀行の出入り口前にクルマが停まっています。


こちらは、UrCove―by HYATT―逸扉酒店の出入り口

ホテル玄関前での観光客のタクシー待ちの姿が印象的でした。



《昔、この胡同にあった日本関係の企業や店舗など》
引き続き昔の霞公府にあった日本関係の企業や店舗名などをご覧いただきます。番地番号は当時のものであるので、ご注意ください。


浦島食堂・・・霞公府1号
『北京案内記』(新民印書館、昭和16年11月20日発行、昭和17年3月1日8版)に当時の「喫茶店と食堂」についての解説があったので、参考にその一部を次に書き抜いておきました。


「北京の喫茶店は東京のそれの様にお茶を呑ませて閑談とする様なところは極く少ない。殆んど喫茶店であり食堂でもあるのは現地的特質と云ってよい。」


文中に「喫茶店であり食堂でもある」とありますが、これって見方によっては今のファミリーレストランのような形式だったのか?


こんな記述もありました。
「支那側の喫茶店或は食堂には女給は居らず多くは男の給仕人で少し殺風景だ。」


北京堂書店(書籍・雑誌)
住所番地は上の「浦島食堂」と同じく、霞公府1号
出典は『中国工商名鑑 昭和16年版』(日本商業通信社編、昭和16年8月25日発行)


華北車両株式会社・・・霞公府6号
「華北車両株式会社」は当時の日本の代表的国策会社「北支那開発株式会社」傘下の企業。


設立・・・昭和15年6月3日。


会社が設立された当初は国策会社「北支那開発株式会社」傘下の企業で昭和14年4月17日設立の「華北交通株式会社」と同じ住所番地「東長安街17号」であったのが、のちに「霞公府6号」となっています。


※昭和16年12月10日発行『帝国銀行会社要録 昭和16年(29版)』を見ると「華北車両」と「華北交通」両社はともに「東長安街17号」ですが、昭和17年11月15日発行の『帝国銀行会社要録 昭和17年(30版)』では、「華北交通」は「東長安街17号」、「華北車両」の住所は「霞公府6号」となっていました。


業務内容・・・機関車、客車、貨車、気動車、特殊車両、電車、自動車車体及小型船舶の製作組立、修理並販売、信号機及保安装置用機械器具の製作並販売。線路附帯鉄道用品製作販売及附帯事業。出典『決戦華北の相貌』(華北事情案内所、昭和19年6月30日発行)など。


訳導員事務所・・・霞公府14号
学術会社
出典『北支那文化便覧』(安藤徳器編、生活社刊、昭和13年10月23日発行)


〇株式会社 福昌公司(北京支店)・・・霞公府15号
設立・・・昭和12年10月
業務内容・・・土木請負業。各種機械器具、各種材料、自動車、ガソリン、其他各種酒類、麦酒、砂糖、酒精、金物販売。
出典『帝国実業商工録 紀元2600年記念版』(帝国実業興信所、昭和16年9月25日発行)


以下の4社は上記「福昌公司」建物内にあったのではないかと思われます。
〇合資会社斎藤公司(支店)・・・霞公府15号
営業品目・・・電機器具材料販売。
出典『電気機器年鑑 昭和15年』(電気日報社、昭和14年10月25日発行)


吉田商店・・・霞公府15号
営業品目・・・酒、青果物、水産物、乾物、飲料、漬物、食料油、缶詰。
出典『昭和18年度版 産業生産配給総覧』(産業経済新聞社、昭和18年10月10日発行)


満洲塗装株式会社出張所・・・霞公府15号
業務内容・・・ペイント塗装。
出典『北支蒙疆商工名鑑 昭和14年版』(日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)


大阪海上火災保険株式会社(北京支店)・・・霞公府15号
出典『海運業者要覧 昭和18年・9年版』(社団法人日本海運集会所、昭和18年7月15日発行)


大人の娯楽の殿堂!?・カフェーもありましたよ。
この場所に店舗を構えるなんて大したもんだ!!


〇 富士・・・霞公府19号
業務・・・カフェー
出典『北支蒙疆商工名鑑 昭和14年版』(日本商業通信社、昭和14年5月15日発行)


『北京案内記』(新民印書館、昭和16年11月20日発行、昭和17年3月1日8版)が当時北京にあったカフェーについて触れているので、参考に次に書き抜いてみました。日本占領下の北京に流れていた空気に少しでも触れるよすがとなれば幸いです。


「日本の所謂カフェーなるものは支那人にとっては実に奇異なるものであろう。支那側にも八大胡同にカフェーに相当する妓院があるが、彼女らは芸妓であり、娼妓であるのだから別として、芸妓でもなく、娼妓でもないカフェーの女給なるものは、女招待の訳語があっても一般の支那人には不可解な存在である。」


「ところで北京には三十数軒のカフェーがある。栄枯盛衰の激しい商売ではあるが、事変後(1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件、中国では七七事変。引用者)林立し消滅した数は幾何に上るだろうか、夜毎の胡同にネオンの毒々しさを投げつけて、勇壮な軍歌流行歌のメロデーに一瞬ほのかな郷愁を誘われてふらふらと扉を押すものもなきにしもあらずと言うわけで相当の繁盛だ。」


「一流のカフェーと云われる、北京会館、新興、富士、太陽、聚和等は設備に於て美人女給を揃えて居る点で内地のそれに決して劣らない。」


上の記述で「一流」と言われた「富士」以外のカフェーの住所を書いておくと次の通り。
北京会館は内一区新開路41号、新興は内一区棲鳳楼25号、太陽は内一区二条胡同受緑街5号、聚和は内一区燈市口大街75号にあった。


次の各施設は明治時代にはすでにあったもの。


新昌洋行・・・霞公府西口外
業務内容・・・理化学獣医器機、薬種、雑貨、化粧品。
出典は『帝国実業商工録 紀元2600年記念版』(帝国実業興信所、昭和16年9月25日発行)。


この会社の設立は古く、明治年間にさかのぼります。
『北支那在留邦人芳名録』(北支那在留邦人芳名録発行所、昭和11年発行)にはこの企業の沿革についてやや詳しく書かれているので次に書き抜いておきました。


「明治33年7月北清事変(義和団事件のこと。引用者)勃発ニヨリ渡支シ北京駐屯各国軍隊二物資ノ供給ヲナシ、同年11月北京前門大街ニ店舗ヲ設ケ軍需品ノ供給ヲナス。同38年霞公府ニ移リ之ヲ本店トシテ従来ノ店ヲ支店トシ雑貨其他ノ輸出入貿易ヲ始ム。大正3年欧州大戦ノタメ各国駐屯軍ノ大部分引揚ト同時ニ軍隊用達商ヲ中止シ、爾来支店ハ医化学薬品類ノ販売ヲ専業トシ、本店ハ一般輸出入貿易ヲ主トシ傍ラ生命火災保険ノ代理業ヲナシ今日ニ至ル。」


山本写真館・・・霞公府(番号不詳)
この写真館も設立は古く、やはり明治年間。
義和団事件を体験しているというだけでも驚きなんですけど・・・。


丸山昏迷著『北京』(大正10年3月25日発行)の中でも紹介されている写真館。
「明治30年の開業で、当時は支那人の写真館がなかったので支那の大官等は皆な同館に来て撮影したそうである。北清事変の際一時休業し34年再び開業して今日に至った。写真撮影の外、写真機及び材料を販売する。」


支那語同学会
日本人経営の中国語学校。
丸山昏迷著『北京』(大正10年3月25日発行)の中でも紹介されている語学学校。
「明治36年の8月に前東京外国語学校及び東京高等師範学校清語教師金国璞氏が北京に帰ったので、語学校出身の人々が北京に於て支那語を学ぶものの為めに創立したものである。」
「当時は文学博士服部宇之吉、書記官鄭永邦、警務学堂監督川島浪速の諸氏が評議員となってその発展に力め、其後幾多の変遷を経て校舎も現在の場所に移り、漸次盛大に赴き、大正7年10月31日には更に面目を刷新した。」


楢崎観一著『興亜建設の基礎知識』(大阪屋号書店、昭和15年)も上の語学学校に触れているので抜いておきました。この語学学校が中国語を学ぶ日本人にとってどのような位置づけがなされていたかの一端を知ることの出来るのではないかと思われます。


「北京では最先に支那語を学ぶことが必要であるというので霞公府にあった清語同学会に入塾した。この学会は日本から来る留学生―文部省、外務省の留学生の便宜を図るため公使館の補助で作った機関であるが、民間の支那研究者をも網羅しているので宛然梁山泊の観があった。」


【名称と住所について】
なお、わたしの眼に入った範囲内で云えば、この語学学校の名称について次の三種類がありました。丸山昏迷著『北京』では「支那語同学会」、楢崎観一著『興亜建設の基礎知識』では「清語同学会」となっていますが、脇川壽泉編『北京名所案内』(初版は大正5年5月30日発行、大正10年6月30日改版増補第6版、大壽泉堂刊)では「華語同学会」と記載されていました。


また、この語学学校の住所番地について触れておくと、丸山昏迷著『北京』では「霞公府帽児胡同」とあったのですが、霞公府あるいはその付近には「帽児胡同」という通りはないのでこれは印刷などの際のミスではないかと思われます。ひょっとすると霞公府の途中から北方向に「紗帽胡同」(細かく書くと小紗帽胡同と大紗帽胡同にわかれる)という胡同があるので、この胡同名と間違えて印刷されてしまった可能性もなきにしもあらずなのですが。今回ここではとりあえずこの語学学校の住所を「霞公府」としておきました。


増補「支那語同学会」について(2023年6月3日記)
上の「支那語同学会」について、その名称や場所などについてのより詳しい情報を次に増補しました。


〇1903年(明治36年、光緒29年)8月、支那語研究舎が設立される。場所は、北京東単二條胡同にあった金国璞(日本で中国語教育に従事)の住居を兼用。


〇1905年(明治38年、光緒31年)11月、清語同学会と改称。小紗帽胡同東端に移転。金国璞の自宅が窮屈になったためという。


また、金国璞自宅付近には、清語同学会に通う学生のための寄宿舎も設けられる。


〇1912年(大正元年、民国元年)、大日本支那語同学会と改称される。


〇1923年(大正12年、民国12年)9月1日、大日本支那語同学会が小紗帽胡同から東単三條胡同旧日本小学校校舎に移転。小紗帽胡同の元校舎は「12人ほど入れる学生寮」となる。


〇1925年(大正14年、民国14年)、北京同学会語学校と改称。さまざまな問題を抱えた大日本支那語同学会が「北京夜学会」という学校と合併したためだそうだ。


〇1939年(昭和14年、民国28年)、北京興亜学院と改称。
「日中戦争の拡大・激化に伴い、対中国戦に必要な人材の確保に迫られたため、所管が在北京日本大使館から興亜院華北連絡部文化局へと移され」たためと思われる。


〇1944年(昭和19年、民国33年)、北京経済専門学校と改称される。


〇1945年、日本の敗戦とともに歴史から姿を消す。


増補に際して、次の資料を参考にしました。
参考:黄漢青著『支那語研究舎の変遷及びその実態--支那語研究舎から北京同学会語学校までを中心として』掲載誌 慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション / 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 編 (39) 2007 p.163~179



次に日本関係ではないのですが、二点ばかり書いておきたいと思います。


一点目
〇昔の霞公府(胡同)には葡萄牙公使館(葡国使館/ポルトガル公使館)がありました。


上記の脇川壽泉編『北京名所案内』(初版は大正5年5月30日発行、大正10年6月30日改版増補第6版、大壽泉堂刊)には、「葡萄牙公使館」とあり、住所は霞公府。


下の地図を見るとその大体の位置がわかりま


この地図は中華民国10年(1921年/大正10年)12月再版『新測北京内外城全図』(上海商務印書館発行、複製)の一部。

青線矢印に「葡國使署」とあるのが確認できる。


ちなみに、時代が下って昭和13年10月23日発行の『北支那文化便覧』(安藤徳器編、生活社刊)記載の「葡萄牙公使館」の住所を見ると昔の使館区域・東交民巷近くの「台基廠」に移っていました。


そして、二点目。
北京市文学芸術界聯合会(簡称「北京市文聯」)の瓣公(事務室)がここにあったそうです。・・・霞公府15号


1950年5月北京市文聯成立。
小説『ラクダの祥子(シァンツ)』『四世同堂』、劇作『茶館』などの作者・老舎(1899年2月3日~1966年8月24日)が主席に就任しています。


文聯成立当時、わたくしが中国文学界で最も尊敬している作家老舎は「霞公府」にほど遠からぬ「燈市口西街豊富胡同19号」に家族と共に暮らしていたので、ひょっとするとこの自宅から王府井大街を通って「霞公府」の事務室まで徒歩で通ったこともあったのかもしれません。当日はそんな愉しいことを想像しながら王府井大街をふらふらしました。



王府井大街(ワンフージンダージエ)の南側から北方向を撮ったもの。

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