北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第292回 《寄り道編》初春の古北水鎮(前)

3月に入り、気温もやや上昇、啓蟄も近づき、ジッとしていられなくなった。


なぜか山が見たい。その麓には小さな村があって、小さな川が流れていて、しかも、その川には可愛らしい石橋がかかっている。そんな場所がいい。


2023年の3月5日。万里の長城の一つ、司馬台長城脚下、密雲区古北口古北水鎮にふわふわっと出かけた。北京からタクシーをふっ飛ばしておよそ2時間。


到着後、タクシー停車場で送迎用の小型バスに乗り換え、下の写真の場所へ。
この勇壮な建物内で宿泊などさまざまな手続きを行ないました。

声を大にして書いておきたい。係りの人たちの客対応が非常に親切・丁寧なので好感が持てました。


それはそうと、上の建物の斜め前にローソンがあった。ちなみに、上の建物内にはスタバもあった。

北京のどこに行ってもある。ローソン、セブンイレブン、スタバ、マック、ケンタ。さすがにここにローソンやスタバがあるとは思わなかった。当然「良かった、助かる~」という方もおられるに違いない。でも、そうじゃない。わたしの見たいのは、これらの店舗じゃぁない。わたしが見たいのは小さな川や可愛らしい石橋だ。


手続きを済ませると、下の小型バスで宿泊ホテルへ。


横顔もいい。正面もいい。


で、うしろ姿はどうかな?

やっぱり、いい。お客のママさんと男の子もいい。


さ~て、いよいよ到着。この「山水城」とある堅牢なゲートを潜ると宿泊ホテルがある。



ゲートを潜る前に、せっかくなので辺りを散策してみました。


こんな場所があった。
「円(圆)通塔院」

ここは禅寺で、宿泊、食事、よければ座禅を組んで修行もできる。



山門の中を見ると、シュールで禅問答のような風景が目の前に。


再びゲートに戻り、いよいよ中へ。


ほんの少し歩いて行くと・・・


ホテルの看板。「威廉・埃徳加酒店(William Edgar Boutique Hotel)」。

こちらのホテルはアメリカの旅行家・ウィリアム・エドガー・ゲイルさんに因んで造られたものだそうだ。名前が旅行家に因むという点が気に入り、奮発して自宅からこのホテルに予約してみると、たまたま空き室があり部屋を取ることができたのは幸いでした。


旅行カバンで作られたフロントのカウンター。

やはりスタッフ皆さんの客対応が親切・丁寧。もちろん各設備もしっかり出来ていて、安心して宿泊できるホテル。でも、わたしには勿体ないくらいの贅沢さ。


ホテルの部屋でひと休みして、さっそく出かけてみた。


ホテル近くに「英華書院」という建物が。

正面には「学」の一字が刻まれた「影壁(インピー)」。


もちろん多くの手が加えられているのですが、この学校が設立されたのは明の洪武年間(1368~1398)なのだそうで、昔、この地方を守護していた兵士や村人たちのために設立された学校だったのかもしれません。「英華」という言葉は、韓愈の「進学解」の中の言葉なのだとか。



石段を上がって門を潜ると、眼にこんな風景が飛び込んできた。




時季によって水を入れる。


そして、水に映える蓮の花を観賞することが出来るそうです。



英華書院を離れる途中で見た景色。
先に紹介した禅寺「円(圆)通塔院」の円(圆)通塔。


石段をゆっくりとくだり、地上へ。


川にはまだ氷が張っていました。


氷が溶けると本格的な春になり、舟遊びを楽しむことが出来る。
舟遊びの出来る季節にふたたび訪れたいなぁ。


日月島広場という所へ行って昼ごはん。旅先で興奮していたため、あまり空腹感がなく、黒胡椒スパゲティーとカプチーノで簡単に済ませました。


この広場では時間帯や時期によってさまざまな催し物が開かれています。


京劇の面が展示してあった。



この広場には舞台もあって京劇なども観ることが出来る。


この時、たまたま現代京劇の舞台を観ることが出来たのは幸いでした。


『紅灯記』という作品の一部なのだそうです。
反省の弁・・・「前もって下調べして勉強しておかないといけないな」




二人の所作や歌声がいつまでも心に残る舞台。舞台演劇にはテレビや映画とは違う魅力がありますね。


反省の弁・・・終劇と同時に他のお客に混じって拍手はしたものの、舞台に向って何か声をかけたかった。こういう場合にかけるべき言葉を知らず、残念というほかはありませんでした。



現代京劇を観終わってから再び散策。


歩いていると、どこか懐かしい風景に出っくわした。




さらにふわふわしていると、こんな風景が突然姿を現した。


昔、北京城内を走っていた有軌電車(路面電車)。


上の車両にも次の車両にも「天橋(てんきょう)」と書かれている。


「天橋」は天壇公園などで有名な観光地のある北京城南部(外城、南城)の繁華街。下の図でいえば、赤線円内の「外五区」内にある。

この「北平地面公安分区図」は民国30年(1940)代作成(?)と思われる『北平市全図』(蘇甲榮編製、日新輿地学社出版、複製)の欄外に載っていたもの。


《昔の天橋について》
では、天橋とはどのような場所なのか、いや正確にはかつてはどのような場所だったのか。


日本占領一年ほど前の1936年に北京(当時北平)を訪れた林芙美子(1903~1951)さんが当時目撃した「天橋」について書いていて、天橋という所がいかなる場所であったのか、その一端を垣間見ることが出来る。


「私はここにいる間、支那新聞の記者の方の案内で、天橋(テンチャロ※)と云う処へ行ってみた。日本で云う浅草みたいな処で、大道の寄席もあれば、軽業、剣舞、芝居、それらが、天幕小舎でやっているのだ。十五、六の娘が皿を両手にまわしながら、額に金魚鉢を載せていたが、金魚鉢には、二匹の金魚が泳いでいた。」
「合義軒と云う娘義太夫のような小舎へ這入ると、壁の上に薫卉宝とか、李蘭舫、三堂会審と云った名前が出ている。娘たちは打楽器のようなひくい三味線にあわせて、太鼓を叩きながら唄をうたう。売馬と云うのを聴いた。馬子が病んで馬を売らなければならなくなると、友人がその馬を借りて、働いてやったと云う友情物語だそうだ。」(昭和十一年十月『北京紀行』より)


当時の天橋は「日本で云う浅草みたいな」所で、大道の寄席、軽業、剣舞、芝居などを天幕小舎でやっていた娯楽の集積地だった。安上がりでお手軽な娯楽を求めて多くの北京庶民が足を運んだであろうことは想像に難くない。


参考にもう一点、天橋について書かれた記事を次に掲げておきました。この記事から記者の嗅覚が捉えた当時の天橋が発散していた体臭のようなものを感じないだろうか。その体臭は、あえて書けばどこか淫らでいかがわしく胡散臭い、それでいてどこか限りなく親しく哀しげで底の知れない強靭さを秘匿しているそんな体臭である。


「北京人は天橋を愛している。天橋とは呼ばないで天橋児(※)と呼ぶ。東京人が浅草に特殊の愛着を持つように北京人は天橋児を愛している。そこには天橋独特の性格があるからだ。そしてその性格は世の拗ね者が身を隠し、陽光を怖れる者が遁れ込み、世の不平者が雑閙の中に欝を晴らす、底の見えない泥沼のようなものだ、果てしのない森林なのだ。その森には名も知れない小鳥が自分の唄を誰憚からず歌い、小賢しげな猿は梢に雑然と座を占めて天に悪態を吐きかけている。生い繁る雑草、錯雑する木々の枝、そこにありと總ゆる小動物、虫けらが汚辱の叢の中に生きているのだ。長い圧制の下に住み慣らされて来た北京庶民が、何か人間らしい息吹きを自ら感じ得るのは天橋児の森に分け入る時だったのだ。そこに天橋児の性格があるのである。東京人の浅草(エンコ)よりも、何かもっと切実なものが感じられるのである。」(昭和16年11月20日発行『北京案内記』新民印書館より)
(※)「天橋児」の読み方をあえて記せば「ティエンチァル、ティエンチャロ」となるかもしれません。「児」は助詞で「er、アル」と読み、簡体字で「儿」と書く。「天橋児」は、あえて書けば「北京弁」とでも呼べるもの。ただし、この場合は、北京の庶民たちの「天橋」という場所に対する親しみが込められている表現として捉えているようです。林芙美子さんの記事では「テンチャロ」とルビがふられていました。


《昔の北京城内を走っていた有軌電車(路面電車)ついて》
さて、詳細は省略しますが、次に昔の北京城内を走っていた有軌電車(路面電車)について簡単に触れておきたい。


参考・下の図は当時の路面電車路線駅名図(同上)。
赤線円内に「天橋駅」がある。


1924年12月17日、開通式が挙行され、翌日、前門と西直門の区間を走る。これが路面電車が北京城内を正式に走った最初だそうだ。その後、この路線は「天橋―西直門」と延長、さらにその後、「天橋―西直門」間を第1路として第8路までの路線が造られている。路面電車が路線の増減や車両の変更、他の交通手段(無軌電車、公共汽車※)の出現などさまざまな紆余曲折を経て北京の人々の足としての使命を終えるのは1924年の式典からほぼ42年後の1966年5月6日でした。
(※)「無軌電車」はトロリーバス、「公共汽車」は路線バス。


1958年、10月4日、第1路(西直門―永定門火車站※)と第8路(西直門―北京体育館)停止。
1959年、3月9日夜から10日早朝にかけて、内城の5路線が停止。
1966年、5月6日、最後の路線(北京体育館―永定門火車站)停止。
(※)「火車」は「汽車」のこと。「站」は「駅」。


なお、再開発後の前門大街には路面電車が走っていて、今もその雄姿を観ることはもちろん乗車することも可能です。



「天橋」とあるなぜか懐かしい路面電車。俗に「铛铛车(鐺鐺車、ダンダンチョー)」と呼ばれていました。日本語で「チンチン電車」といったところでしょうか。

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