第236回 北京・紅燈幻影 《百順胡同 その一》
今回は、東壁营胡同と西壁营胡同の一本北側にある「百順胡同(BaishunHutong/バイシュンフートン)におじゃましました。
歩き始めたのは陕西巷沿いにある東口から。
明の時代は「柏樹胡同(バイシュウフートン)」。陕西巷附近に多くの柏樹があったのがその名の由来だそうです。
ちなみに、日本で「かしわ」とはブナ科の落葉樹のことですが、中国ではヒノキ科の常緑樹で、日本語で言えば「このてがしわ」のことを指しています。
次の清の時代に「百順胡同」と改名され、その呼び名が現在まで続きます。
「百順(バイシュン)」は「柏樹(バイシュウ)」の語呂合わせになっているとともに、この語には「百事順心」(物事が思い通りになる)という意味が込められていると言われています。
東口の南側には人目をひく建物が。
これは昔、妓院だったといわれる建物ですが、住所は陕西巷。そこで、回を改めて取り上げる予定です。
こちらは1号院。
玄関の奥に「福」の一字が書かれています。
魔除けのための「影壁(インビー)」の役割を果たしている建物の側壁。
「福」の一字によって幸福を招きよせ、影壁によって邪を遠ざける。
「ふくはーうち、おにはーそと」。
節分の「豆まき」を思い出す方もおられるかもしれません。
次の地図は『北京内外城詳図』(著作者、王華隆)という、民国二十九年(1940年)頃に発行されたもの(複製)。
これを見ると、当時、この胡同の東口附近に「警覚寺」という寺院のあったことがわかります。
時代をさかのぼって、《古都北京デジタルマップ》所収、1750年ごろに作られたといわれる『乾隆京城全図』を確認してみると、当時東口から少し西方向に行ったところの北側に「観音庵」という寺院があったことがわかりました。
1号院から少し西へ行くと「TEA 茶」、「楽佳鑫茶館」という看板。
「TEA」とあるところが現代的というか、観光地的というか・・・。
その隣は百順社区服務站。
斜め前には理髪店。
西方向から撮っています。
お次は体勢をかえ、西方向を。
二階建ての建物に注目です。
こちらは、百順社区委員会、百順社区居民委員会。
ある胡同関係の本の中には、ここは、京劇や昆劇で著名な『玉堂春』の主人公で明代の名妓、玉堂春(これは日本語で言えば源氏名。本名蘇三)が身を置いた妓院“蘇家大院”の跡地だという記事があり、その記事によればその規模は南側の東壁营胡同沿いまであったか。(『八大胡同』李金龍著、2000年10月、中原農民出版社)。
また、同上書によれば、ここには民国期、蒔花館という一等妓院(清吟小班)がありました。
ちなみに、日本占領下の昭和16年(1941年)11月に出版された『北京案内記』(新民印書館)を見ると、当時、百順胡同にあった9軒の妓院(一等妓院)が載っており、その名称は次の通り。
蒔花館、美鳳院、群芳、鑫雅閣、鳳鳴院、
明鳳院、蘭湘、瀟湘館、鑫鳳院
なお、『北京地名典(修訂版)』(王彬、徐秀珊主編、中国文联(竹冠)出版社、2008年11月刊)
によると上記の「群芳」には沈紅梅、董絳雪、「瀟湘館」には金蓮香、楊星月などの名妓がいたそうです。
ついでに書いておきますと、先の『八大胡同』に収められた著者による住民からの聞き書きによると、日本占領下の百順胡同には6軒の日本妓院があったそうで、その内、名称のわかっているものを挙げると次の2軒。
一軒は新亜閣、もう一軒は松竹館。
こちらは23号院。
途中まで中に入っていったものの、上空から心和むハトの暢気な鳴き声が降ってきたので、思わずもとに戻り、ハトの所在を確認。
大きなハト小屋。
こちらは10号院。
門墩がありました。
彫り飾りが削られています。
さらに前へ。
看板は出ておりませんが、ここは棋牌室。
中を拝見すると、3、4のグループが真剣なまなざしでマージャン中。
記念に写真をと思ったのですが、皆さん、かなり熱くなっているようで、その雰囲気皆無。そこで、そそくさと退散。
この棋牌室の斜め前には北京市公安局西城分局、警務工作站。
棋牌室と警務工作站をあとに、さらに前へ。
次の写真の手前左(南側)にクルマが写っていますが、このクルマのところで左折すると以前ご覧いただいた胭脂胡同。
もちろんここは、直進です。
少し進むと可愛らしい神獣、聖獣の置物を発見。
思わず持って帰りたくなってしまうほどになんとも愛嬌のあるお顔。
思えば、北京は聖獣、神獣に溢れています。
その位置や種類を調べるのもおもしろい。
そして胡同は鉢植えにも溢れています。
二層の建物がありました。
こちらは18号院。
窓の上部に飾りが施されています。
拡大するとお分かりになりますか。
増改築で中庭はかなり狭くなっていました。
昔の面影を残す垂花木楣。
先にこの胡同には6軒の日本妓院があったことを書きました。
別のこの胡同について書かれた記事の中には、ここがそのうちの一軒、松竹館だったというものもあるのですが、はたしてそれが確かなものであるのかどうか。わたしとしては確信は持てなかったものの、とりあえずご参考になればと思い、今回取り上げてみました。
大きな声では言えませんが、日本占領下の百順胡同は、日本妓院に溢れていたんですね!?