北京·胡同窯変

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第246回 北京・紅燈幻影 《青風夹道(後)》

細い路地がうねうねとつづく青風夹道。



前回は、ここにかつて火神廟があり、火神廟が火災予防のための廟宇であったことについて書きました。


今回はまず、やはり火災と関係の深い、旧北京に存在した、民間の自衛組織・結社の一端に触れてみました。



【旧北京における自衛組織】
その名称は、たとえば公議水会、同善水局、義善総会、安平公所などといい、今堀誠二著『北平市民の自治構成』(昭和22年9月25日発行、文求堂)によると、台頭したのは、アヘン戦争終了二年後の道光25年(1845)頃からで、内城外城の内、外城を主として、およそ25以上の団体が民国初年までに結成され、その内の16ほどが、今堀さんが調査していた民国32
年(1943)頃にも存在していたとのこと。以下この旧北京にあった自衛組織についての記述は今堀誠二さんの上掲書に基いています。




【事業内容と主要メンバー】
この団体は「街」または「坊」ごとに編成され、その事業内容は、「治安・消防・慈善」の三方面で、事業の中でもとりわけ治安と消防に力を注いでいたようです。


この組織で中心となっていたのは、老舗、すなわち信用ある商人で、その呼び名は清朝時代は「首事」「紳董」「会首」が一般的で、他に紳士、局紳、紳商、司事などの名称もあり、民国になってからは、清朝以来の名を使用している者も多いけれど、董事、会首、会長、会員と改称。(他に「助善」と呼ばれる援助者がいたようですが、今回は省略しました。)




上に「治安・消防・慈善」という三方面の事業内容を挙げましたが、次に火災と関係の深い「消防」について触れておきます。


【消防組織の名称とその構成員】
この組織は消防機関として「水会」または「水局」を有しており、そのため「水会」「水局」が会の名称に用いられることもありました。ちなみに、水会、水局とは現在の消防隊の前身となる消防組織のことですが、光緒時代の中葉を境としてそれ以前は普通「水局」が用いられ、それ以後は通常「水会」が
用いられていたとのこと。


水局や水会の人的構成として「頭目・夫役・紳董・助善」などがあったそうですが、ここでは頭目と夫役について触れておきます。


〇頭目
頭目はまた「正目・夫頭」などとも呼ばれ、会で雇った消防主任で、人数は普通一人か二人。月給を与えられて公所内に居住し、水局の中心となる人物。
平時は消防具の保全に任ずるとともに火警に注意し、火災の際には直ちに人を集めて消防に赴きました。


〇夫役
消防手で、その人数は普通十数人から五十人くらいまで。


小商人などが多く、附近に居住するもので丈夫なものが担当し、平時は大体無給で、従って訓練などもなかったそうです。


火災の時などは多少の手当をもらっていたようですが、その額は少なく、消防手としての参加について、上掲書には「やはり義侠的に出るのである」と書かれています。



【消防範囲について】
消防は会員の居住地域内はもちろんですが、地域内の火災のみを対象としていたとは限らず、必要に応じてかなり遠くまでも出動していたようです。


上掲書にこんな記述を見ることが出来ます。
「かく自衛とは言ひ條、その範囲を自己の坊又は街に限らなかったのは、火災が拡大するものであると言うことによるよりは、やはり義挙の性格に基くものと考えられるのである」。


【消防用具】
中心となるのは「ポンプ」で、通常「龍」と言われている旧式のものも残存し、「洋龍」と呼ばれる新式のヨーロッパから輸入されたものがあったそうですが、自動車ポンプ等は存在しなかったとか。


ポンプには、色々なものが附随していて、龍帯(チューブ)、水箱(筒口)、水車(馬穴)等をはじめ、鼓笛の類から旗燈にいたるまでそれぞれ数が決まっており、出動に際してはポンプ何台とさえ示せば他は自ら準備される事になっていた。



【祭祀について】
会で祭る神は大体決まっており、共通して祭られているのは「火神」が多く、水の神である「龍王」や、その他「関帝」も祭られていた。


筆者の今堀さんが北京(当時北平)滞在時に実見した消防隊の火事現場における消防活動のあり方は、実に悠長なものであったようです。その消防活動についての感想を今堀さんは書いています。「ところ変われば品変わる」と言いますが、その内容が興味深く、次に書き写してみました。引用に当たり、一部表記を改めています。


「思うに消防が手ぬるいと感ぜられるのは派手な火災に照して当然の印象であるが、北平の家は大半は磚(煉瓦)で出来ていて木を用うる事甚少なく、一面水には非常に不自由で僅かに街上に点在する井戸に依存する位のものであるので、速に消火せんとしても絶対に不可能であると共に、類焼は案外少なくて自然鎮火し易い訳である。そこで消防の方法も日本と異なり、類焼の防止が主要な工作となり、その為近傍の家に水をかけたりしてぼつぼつやっている中に、何時しか火災を食い止め得たのである。事実北平では延焼によって大火になる事は殆んど無いので、あの程度の消防が実はふさわしいのであり、それで十分とは言えないが存在意義が認められる程度の効果はあったと思われるのである。」


さて、旧北京における自衛組織については、今回はこの辺りで切り上げ、さらに南方向に進みます。


右手に路地がありました。



西方向に細い路地。



さらに奥があるようです。
突き当りを右折。



ここにも鉢植えがあり、大切に育てておられるようです。



もとに戻り、歩みを進めます。



ニャンコがお食事中。



五福臨門。




五福とは、長寿、富貴、康寧、好徳、善終の五つの福。


五福臨門の脇には、やはり路地。



路地の奥にあるのは15号院。



瓦の一部を組み合わせて造られた文様。
素敵な花瓦頂(ファーワーディン)がありました。




手作り感あふれる車庫。

電動三輪車をいかに大切にしておられるか、こちらにガンガン伝わってまいります。



右折すると、住民の方がくつろいでおられました。


住民の方の前を通り過ぎ、右手には、やはり路地。



ところで、胡同関係の本によると、1949年、新中国成立とともに妓院が封鎖される以前、かつて火神廟夹道と呼ばれていたこの胡同
は、二等妓院(茶室)と三等妓院(下処)の混合区として著名な地域であったそうです。



それでは、何軒の妓院があったのか。


たとえば、民国18年(1929)の社会調査を見ますと、二等妓院が3軒、三等妓院が6軒、合わせて9軒の妓院のあったことがわかります。



なお、胡同関係の本によりますと、具体的な数は不明ですが、ここには「暗門子(アンメンズ)」もあったとか。


暗門子とは、一般的には私娼(暗娼)、すなわち、もぐりの娼婦を指しますが、時によって、もぐりの妓院をも意味することがあっ
たようです。



ご参考に民国18年(1929)の社会調査に見られる「三等妓院の妓女年齢と妓女人数」を挙げておきました。


年齢        人数   年齢         人数
16歳     5    30歳         44
17歳    71      31歳         26
18歳   170             32歳         20
19歳   146             33歳          3
20歳    227            34歳          3
21歳    167            35歳         13    
22歳    186            36歳         13
23歳    155            37歳           4
24歳    153            38歳           3
25歳    118            39歳           0
26歳    136            40歳           2
27歳   74            総数    1859
28歳     69
29歳      51




再び素敵な花瓦頂のあるお宅がありました。



素敵な花瓦頂のあるお宅の前辺りには、25号院。



こちらは、昔の妓院跡。名称は「鳳翔院」。おそらく二等妓院だったのではないかと思われます。



先に「暗門子(アンメンズ)」について触れましたが、私娼で思い出すのは、何といっても、北京をこよなく愛した老舎の小説『月牙児』(日本名「三日月」)の主人公。


老舎は、この小説において母と同じく私娼となったあげく、やがて監獄に入れられることになる一人の娘の生きざまをその独白を通して淡々と描いています。その独白の中からいささか長くなりますが、一箇所紹介させて
いただきます。引用箇所には、主人公の娘がその体験を通して得た、娼婦としての《心得・哲学》が描かれています。


引用に当たり、『老舎小説全集6  老舎自選短編小説選』(訳竹中伸、1981年12月1日発行、学習研究社)を使用させていただきました。


「最初は怕(こわ)かった。何分私はまだ二十歳前であったから。だが四、五日やっているうちに要領も分かり、怕くなくなった。彼等がクタクタになるまでサービスしてやると、彼等は散財のしがいがあったと喜び、満足
して帰って行き、私のためにただで宣伝までしてくれる。」



「数か月この商売をやっているうちに、いろいろなことが分かるようになった。私が一目見ただけで、この男はいかなる種類の人間であるか、大体判断がつくようになった。金持に限ってまず玉代(ぎょくだい)は幾らかと
詢(たず)ねる。値段を定めた上で取引しようというわけだ。このようなお客に対してはサービスもほどほどにして置く。この種の客が余り身勝手なことをいったり、威張り散らしたりしたら、私は、あなたの家に押しかけ
て行って、奥さんにいいつけてやるからというと、直ぐに慌てておとなしくなる。まことに効果てきめんである。小学校で幾年か本を読んだことは無駄ではなかった。やはり人間は教育を受けることが必要である !」


「また、一元銀貨一枚を後生大事に手に握って、騙されて損をしたら一大事と心配しながらやって来る男もいる。こういうお客には詳しく条件を説明し、これでは駄目だから家に帰って、もっと沢山お金を持って来なさい
といってやる。するとヤッコさん大慌てをして帰って行く。その慌てて出て行く姿を見るのはまた面白い。」




「最も始末の悪いのはすれっからしの〈遊冶郎(ゆうやろう)〉である。この連中はちょっと油断をしていると、鏡台に置いたクリームなどを手当たりしだいに持って行く。しかも、この連中に対しては余り冷淡な仕打ちを
して怒らせるわけには行かない。彼等はいわゆる土地の顔役であって、うっかり彼等の機嫌を損じると、警官を引っ張って来て、〈商売〉ができなくされる恐れがあるからだ。だから彼等に対しては機嫌を損じないように、
適当にサービスしてやらねばならない。しかし、私はそのうち警官をお客にし、これをうまくまるめ込んだ上で、徐(おもむ)ろにあのすれっからし連中をかたづけて貰う。」



「この世の中は虎や狼のような強い者が勝つのだ。悪いヤツほど得をする。一番あわれなのは貧乏書生だ。彼等はいつもピーピーで、財布の中にはせいぜい一元銀貨一個と、銅貨が何枚かはいっているだけで、朝から晩まで
鼻のあたまに汗をかいてバイトをやっている。私は彼等を気の毒だとは思うけれど、だからといって、彼等に対して特別に廉売をするわけには行かない。気の毒だが何ともしようがない。それからお年寄りだ。彼等は身な
りもキチッとしていて、多分家には孫たちがゾロゾロいることだろう。私はこのようなお年寄りをどのように扱ったら好いのか困ってしまう。結局この人たちにはお金があり、冥土の土産にこの世の快楽を味わってみたい
のだろう。だから、私は仕方なく彼らの需要に応じて、適当に供給することにしている。」


「このような種々の経験を積んで、私は〈お金〉と〈人間〉との関係がよく分かって来た。結局〈お金〉は〈人間〉より一段上なのだ。そして〈人間〉が獣だとしたら、〈お金〉は獣の肝(きも)なのだ !」引用は以上。


なお、この作品は、1935年4月、『国聞周報』に三回にわたって連載されました。


この胡同の南出入口。



写真、右手の角を曲がると、この胡同の名称の由来となったといわれる「青風巷(Qingfengxiang/チンフォンシアン)」。




写真、右手に見える路地が「青風夹道」の南出入口。左手がその名の由来となった「青風巷」。『古都北京デジタルマップ』所収の「乾隆京城全図」で確認してみますと、当時「青風巷」は「清風庵胡同」(※)という名であったことがわかります。すぐ北側に「清風庵」という寺院があり、この寺院名がその
名の由来となっていたと思われます。


「火神廟夹道」が現在の「青風夹道」と改名されたのは、1965年の地名整頓時のことでした。


※《お詫び》と訂正について
当記事の更新時において、「乾隆京城全図」において「青風巷」は当時「清風胡同」であったと記しましたが、正しくは「清風庵胡同」の誤りでした。
大変に失礼いたしました。誤記してしまったことを、深くお詫び申し上げます。
(記:11月1日)

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