北京·胡同窯変

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第247回 北京・紅燈幻影 《青風巷》

青風巷(Qingfengxiang/チンフォンシァン)」。


現在、東は青風夹道から、西は朱茅胡同までとされる青風巷が、今の名前になったのは1965年の地名整頓時からのことでした。


では、それ以前はどのような名前であったのか。


たとえば民国期の地図を見ると、当時この胡同が二つ、あるいは三つの地名に分かれていたことが判明します。


一つは、東京アトラス社編纂『最新北京市街地図』(複製。昭和13年4月5日発行)を見ると、現在の青風夹道から朱家胡同までの路地を青風巷といい、朱家胡同から朱茅胡同までの路地を「横胡同」(あるいは「朱家胡同横胡同」か)と呼んでいます。


もう一つは、現在の青風巷が三つの地名に分かれているケース。
たとえば、民国29年(1940)頃に発行されたと思われる『北京内外城詳図』(複製。著作者、王華隆)という地図を見ると、現在の青風夹道から朱家胡同までの路地を青風巷とし、朱家胡同から朱茅胡同までを「横胡同」(あるいは「朱家胡同横胡同」か)としている点は上掲の地図と同じなのですが、この地図では、青風巷沿いにもう一つの地名を確認することが出来ます。


具体的には、青風巷の中間辺りの北側に路地があり、しかも、その路地の上部に「慶元巷」と書かれており、もし、この「慶元巷」という地名を青風巷沿いにある路地名だとするならば、当時、現在の青風巷は三つの地名に分かれていたことになるというわけなのです。



次に時代をさかのぼり、清の時代。
乾隆15年(1750)頃に描かれた「乾隆京城全図」(「古都北京デジタルマップ」所収)を見ると、現在の青風夹道から朱家胡同までの路地の部分に「清風庵胡同」と書かれていました。


この清風庵胡同のちょうど中間辺りの北側沿いに「清風庵」という寺院の山門があり、その北側に主要な建物が描かれており、清風庵胡同という胡同名がこの寺院名にちなんでいることはいうまでもなく、現在の「青風巷」という地名も「清風」に基いていると考えてよいかと思われます。ただし、この清風庵胡同という地名が、朱家胡同と朱茅胡同の間の路地にまで及んでいたものかどうかは不明。


地名に関してはこのくらいにして、さっそく探索してみたいと思います。なお、当日は東出入口から歩きはじめました。



夏の盛りも終わり、向日葵もその首をうなだれていました。
でも、花壇には前回、青風夹道でも見かけた中国バラ、月季が咲いていました。


こちらは3号院。
宅門の上部にアラビア語が書かれており、こちらがイスラム教徒の回民の方のお住まいであることが分かります。


日除け代わりに簾が置かれた電動三輪車。
タイヤをカバーしている板は、ことわるまでもなく、ワンちゃんたちからのオシッコ攻撃を除けるためのもの。


こちらのお宅も回民の方のお住まい。



アラビア語の下に「・万物非主唯有真主・清真言・穆罕默德是主欽差・」という深遠な言葉が書かれています。穆罕默德(ムーハンモードー)は、日本ではモハメット。


子供たちの衣服がいっぱい干してあるお宅の前の外壁。


チョークで描かれた子供たちの絵がオーラを放っていました。



子供の絵の横には、その奥から渋い輝きを放つ、年季の入った二階建ての洋館。


貫禄たっぷり、洋館の二階部分。


宙に浮いたドアが素敵すぎますよね。


角度を変えて。


角度を変えて撮っていて、ビックリ。
屋根の上にワンちゃん。



胡同を俯瞰するワンちゃん。


屋根の上に犬のいる洋館の少し斜め前には、わたしを誘ってやまない魅力的な路地がありました。



ちょっと気になるお宅があり、おじゃましてみました。



右手を見ると二階につながる階段。



「もとはいったい何だったんだろう」などと考えながら9号院の玄関を出ると、道の真ん中に一匹のネコが行儀よく座っていました。その姿は、「いらっしぁーい」とまるでわたしを出迎えてくれているかのようでした。



こちらを怖れる様子はまったくなく、カメラを向けても微動だにしないネコ。



ちょっとすまし顔で、こちらをジッと見つめています。


人間離れ、いやいや、猫離れした猫、かつてどこぞで一度お会いしたことのある人のように見えてきました。「どこかでお会いしたことがありましたか?」、思わず声をかけてしまいそうになりましたね。



このニャンコの脇のお宅の玄関。



こちらのお宅は、13号院。



門牌を記録し終わり、ふと玄関の屋根を見ると、上から先ほどのネコがこちらをジッと見つめていました。


その後、玄関の脇に可愛らしい椅子があったので、やはり記録としてカメラに収め、再び玄関の中を見ると、いつのまに移動したのか分かりませんが、今度は13号院の正面奥に先ほどのネコが座っており、やはりこちらをジッと見つめていました。



不思議なニャンコだなと思いながら、この路地の一番奥へ。



中にはさらに門があり、その上部に「一帆風順」と印刷された横批が貼られていました。



これは縁起の良い言葉に出会ったものだと、一帆風順を後に、もと来たところに戻りました。



ことわるまでもなく、ここは民国期の地図に載っていた「慶元巷」という路地。また、この路地の辺りが、まさにこの胡同の地名の由来となった、乾隆帝の時代に「清風庵」という寺院があった場所。


それにしても、この路地での一匹のネコとの予想だにしなかった遭遇は、なんとも言い表しようのない不可思議な体験でした。以来、わたしはこの路地を秘かに「猫胡同」と呼んでいます。


猫胡同をあとにする時、さすがに振り返ることはしませんでした。先ほどの猫が路地の真ん中に行儀よく座っていて、こちらをジッと見つめていたら怖いですから。



こちらは石榴小院という宿泊施設。


看板の出ていないところが、奥床しい。



写真奥を横切っているのは、朱家胡同。



朱家胡同を跨いでさらに西方向へ。


ここから朱茅胡同までが、民国期の地図に見ることのできる「横胡同」あるいは「朱家胡同横胡同」。


すぐ近くに観光客で賑わう「大柵欄西街」という商店街があるにもかかわらず、こちらはまったくと言ってよいほど人通りがなく、しんと静まり返った別世界。



ところで、民国18年(1929)の統計によりますと、青風巷には当時、3軒の二等妓院(茶室)がありました。



ちなみに、昭和16年(1941)11月発行『北京案内記』(新民印書館)を見ると、民国30(1941)2月の時点で、青風巷にあった二等妓院(茶室)の数は1軒となっており、先に挙げた調査の3軒から2軒減っていることが分かります。



以前の記事と重複するところもありますが、ご参考に民国18年(1929)当時の北京にあった二等妓院の数を書いておきました。その数は60軒。地名と妓院数は以下の通りです。名称は当時のもの。


石頭胡同    13軒
朱茅胡同    12軒
王廣福斜街   10軒
小李紗帽胡同  9軒
火神廟夹道   3軒
留守衛     3軒
青風巷     3軒
朱家胡同    2軒
朱家巷     1軒
蔡家胡同    1軒
燕家胡同    1軒
王皮胡同    1軒
大安里     1軒



こちら10号院の門牌は一般的なものとは違い、豪華なものになっています。



わたしを追い越して行った自転車の前を横切っているのは朱茅胡同。



青風巷を出た後に撮った、朱茅胡同沿いの西出入口。


朱茅胡同沿いの西出入口を撮ったのはよいものの、なにか物足りないものを感じていたら、以前あったはずの胡同牌がないことに気付きました。


「前にはあったはずなんだがなぁ」
そんなことをつぶやきながら、以前に貼られていた場所に行ってみたり、ほかの所を確認してみたのですが、わたしの間違いでなければ、やはり、見当たらない。


あの青風巷と書かれたプレートは、いったいどこへ消えたのか。
再び貼られることはあるのか。


仕方がないので、2015年の9月に撮った胡同牌を載せることにしました。



この胡同牌が貼られていたのは、朱家胡同沿い西出入口の北側でした。


消えてしまった胡同牌に再び会えないかもしれないと思うと寂しいですが、写真に残しておいたことはせめてもの幸いでした。

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