北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第233回 北京・紅燈幻影《万福巷》増補版

今回は前回紹介させていただいた胭脂胡同にほど近い万福巷(Wanfuxiang/ワンフーシアン)を歩いてみました。


当日は石頭胡同沿いの東口から入りました(地図は省略です)。
この日はかなりの高温、しかも日差しも強く、道行く女性も冷えた缶ジュースを頬にあてながら歩いていました。


次の写真の右に行くと万福巷、左に行くと石頭胡同。
細かいことで恐縮ですが、角のお宅は住所としては石頭胡同に属しているようです。




上の写真のお宅から万福巷。
番号は2号。



とりあえず反対側も書いておきますと、北側の角も石頭胡同に属していました。
具体的には、石頭胡同115号丙。




ネコちゃんを飼っていらっしゃるんですね。




斜め前にやっと1号院がありました。




日差しが強い。
私の前を行くママさんが着ていた薄物を頭に被り始めました。



1号院の隣(といっても1号院と繋がっているんですが)、なかなか味わいのあるお宅。








店先に紅い提灯(灯籠)のさがった山西面館。

この界隈は競争のはげしい場所。決して長いとは言えないかもしれませんが、10年間続けているってたいしたものです。


刀削面、美味いですよね。ただ、庶民的なお店はどこでも量が多くて困るのです。
メニューが大盛り、中盛り、小盛りと三段階ぐらいに分かれているとわたしなどには助かるのですが。残すのもったいない。


メニューの一部をどうぞ。



お店の前には、二層の建物。



一見すると新しそうですが、実は古い。




玄関の中をチラッと見ただけですが、見逃せない雰囲気いっぱい!!



「ひょっとして、ここは元妓院だったんじゃない?」
目を輝かせ、熱く一人で盛り上がる。



北京から妓院が一掃されたのは新中国が成立した1949年。もう、70年の歳月が流れ、この建物も多くの紆余曲折を経て、当時から見るとその間にずいぶん手が加えられているに違いありません。
一階左右の部屋は後年増築されたもの。そのため、中庭が以前に比べて狭くなってしまったという感じです。


二階部分もずいぶん手が加えられています。
二階の手すりに沿って窓などがありますが、これは後年取り付けられたもののようで、手すりも元は木製だったのではないか。そして、その手すりに沿って廊下があり、廊下沿いには小部屋が並んでいた。そんな雰囲気が濃厚です。




と、書いたものの、ここが妓院だったというのは、わたしの個人的な憶測にすぎません。


「八大胡同自古名」で始まる俗謡、戯れ歌(清朝末期か?)の中に「万佛寺前車輻輳」(注)という一句があり、この胡同内にはかつて少なくない数の妓院があったことをうかがい知ることができる。しかし、残念ながらわたしが調べた狭い範囲でいえば、肝心のこの二層の建物がかつて妓院であったという記録を目にしたことがありません。だから先に「個人的
な憶測」と書いたのですが、ご参考に今回この建物と対面して感じたことを率直に書いておけば、ここはやはり昔は妓院だったのではないかという印象を強く受けたということでした。この10号院の二層の建物は、昔の万福巷という胡同の様子をより詳しく知るための貴重な価値あり物件の一つといってよいかと思えるのです。今後もより正確な情報を得る
ことに努めたいと思っております。
(注)後述しますが、「万佛寺」とは、この胡同の名前の由来となった寺院名。


さらに前へ。
次の写真では分かりづらいかも知れません。写真の奥(この胡同の西端)を南北に走っているのは、国内地方からの観光客はもちろん、日本や欧米諸国からの観光客がひと目昔の北京の花街を見ようとその目を輝かせながら大挙して訪れる,昔の花街として有名なひとつ「陕西巷(Shanxixiang/シャンシーシアン)」です。


かつて遊興の徒が夜な夜な足を運んだ紅燈の巷が、現在は観光地になっているわけですが、そんな時代の移り変わりを想像した妓女はいたんでしょうかねぇ。


山西面館の隣。7号院。


その隣は9号院。


この二枚の門牌を見ていると、つくづく歴史の重層性を感じてしまいます。


9号院の前辺り。



先ほどの9号院の脇には細い路地。


誘惑に負けて入ってみました。






人の通わないひっそりとした路地に置かれた美しい鉢植え。いたく感銘を受けました。






上の写真、右のお宅。万福巷11号院。



目を北側に移し、


玄関脇を見ると、ウンチングスタイルのワンちゃん。


「この絵、うまいなぁ」と妙なところで感心しました。


そして、玄関には「出入平安」と書かれた護符と交通安全のお守りとして自動車内部にも見かける若かりしころの毛沢東さんが描かれた護符。



お隣。



先ほどの11号院の前から西方向を撮ってみました。


写真奥を南北に走っているのは先ほど簡単に触れた「陕西巷」。




文字が雨風で剥げ落ちた看板。


上の列、向かって左から「文化芸術交流〇動中△」。〇の部分には「活」、△には
「心」という漢字がそれぞれ入るのかもしれません。
下の列、向かって左から「北京宏汇強商貿有限公司一分公司」。


窓にも何やら書かれています。
左から、「棋牌室」(マージャンや将棋などのできる娯楽場)とあり、次は「→」。



いつ建てられたのかは不明なのですが、この胡同内には「萬佛寺(ワンフォースー)」という寺院があり、清の時ここは「萬佛寺灣」と呼ばれ、1965年に現在の「万福巷」に改名されています。


ちなみに、《古都北京デジタルマップ》所収、清の乾隆15年(1750)頃に描かれたという『乾隆京城全図』で該当地域を探してみますと、はたして「萬佛寺」という寺院が記載されており、このお寺の最後尾が現在の韓家胡同東口の南側ぐらいまであったことが確認できました。


ただし、乾隆京城全図には「萬佛寺湾」という地名の記載はありません。そこで、時代は下るのですが、清の朱一新(1846-1894)『京師坊巷志稿』をみると、当時ここが「萬佛寺湾」という地名であったことが分かります。


次の地図は、民国二十七年(1938年)に東京アトラス社編纂、4月発行の『最新北京市街地図』(複製)。緑色のマルの中が「萬佛湾」。


その「萬佛寺」の跡地は15号院内。
幸いにも玄関近くに住民の方がおられ、許可を得て入ることができました。





雨風などで剥がれないように貼られた春聯。



年季の入った椅子に置かれた玄関脇の鉢植えがいいですよね。


さらに奥へ。




もっと奥へ。



奥を見ると、なんと二階が。


後年建て増しされたものというよりも、もちろん手は加えられていますが、ひよっとするともともとあったのかもしれない。そんな印象を受けました。



階段の前には通路。


さらに奥へ入って行こうと思ったのですが、この日はこれ以上の前進は断念。


この写真では分からないかもしれませんが、路地の真ん中の日陰で一匹のニャンコがお昼寝中だったのであります。



出入口に戻り、隣。


陕西巷沿いから東方向。


【増補】
日本占領時代に発行された資料を見ると、この胡同には満月楼という料理屋がありました。番地は萬佛寺湾15号。ただし、現在の番地と同一かどうかは未確認です。ちなみにこの場合の料理屋とは日本の三業の一つ。(2022年7月11日増補)


暑い。
近くのお店で冷えたスポーツドリンクを買い、がぶ飲みしました。

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