北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第257回 胡同回憶・米市胡同(前)

米市胡同(Mishi Hutong/ミーシフートン)。
明の時代、米糧を扱う市場があり、米市口と呼ばれる。
次の清の時代、米市胡同になり、現代までその名称が使われていました。


胡同会のメンバー(私をいれ)4人で米市胡同にお邪魔したのは2012年8月26日のこと。
集合場所は地下鉄4号線「菜市口駅C出口」でした。


東南方向一帯には目隠し壁が設けられており、その壁の中が開発のため工事中であることが分かりました。壁に沿って南方向へ少し歩くと一ヶ所出入り口のような所があり、当日はそこから中へ。


壁の中へ足を踏み入れる前、工事関係者に足止めをくらうに違いないと思っていたのですが、いざ足を踏み入れてみると人影はまばらで、しかも我々を阻む様子はまったくありません。


出入り口らしきところから周りを眺めると雑草と瓦礫で、その中に切り倒されることなく残った大きな木が立っていました。



そういう景色の中に道というよりも「道らしきもの」があったので、その「らしき」ものに沿って黙々と歩き始めました。


少し行くと「ここは道だ」とはっきり分かる場所に出たので、今度はその道を進みます。



人の気配のまったく感じられない建物、反対にまだ生活感のある建物を目にするのですが、立ち止まり写真を撮ったりはせず、黙々と目的地に進みます。おそらく心の余裕を失っていたのでしょう。



当日、私たちが目的としていたのは、下の写真の建物。



もと南海会館で、清末に活躍した康有為(こう ゆうい)の故居。住所は米市胡同43号。



日清戦争の敗北後、日本を始め多くの帝国主義列強が中国の領土を分割、鉄道敷設権や鉱山開発権などを奪い、各国それぞれの勢力範囲を作ります。このような民族存亡の危機を前にして、変法・維新によって国の富強を図ろうとする運動が起こりました。この運動が日本の明治維新に影響を受けたことをご存知の方も多いのではないでしょうか。


1898年6月11日、光緒帝は「明らかに国是を定める」という詔勅を下し、戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)が始まりますが、9月21日までの103日の間、康有為らの主導で憲法の制定や国会の開設といった様々な制度改革が上諭として発せられます。


しかし、9月21日、変法に反対する西太后は政変を発動。その際、光緒帝は西苑の瀛台(えんだい)に監禁され、康有為やこの運動に関係の深い梁啓超は日本に亡命、譚嗣同、康広仁、林旭、楊深秀、楊鋭、劉光第ら6名(戊戌六君子)は逮捕処刑されてしまいました。


この運動が陰暦の「戊戌」の年に当たることから、戊戌維新あるいは戊戌変法と呼ばれ、変法が103日行われたため、「百日維新」と称されています。



南海会館。
広東南海出身者が設けた会館。
清の道光24年(1824)に建てられたそうで、南海出身の康有為は北京ではこの会館に宿泊し、様々な書を著しました。1984年、康有為故居として北京市文物保護単位となっています。


ちなみに「会館」とは、親睦や互助などのために同業者や同郷者たちが出資して作った施設。清末の北京には460余りの会館があったと言われています。



なお、時代は少し下るのですが、この胡同内には、安徽省の涇県会館(新館)があり、そこに陳独秀、李大釗が編集、胡適などの思想家が原稿を寄せた、“五四運動”に関係の深い『毎周評論』(1918年12月創刊)編集部がありました。住所は米市胡同64号。


さらにもう少しこの胡同にあった会館について触れておきます。
中華民国23年(1934)4版『最新北京全市詳図』(複製)という地図には当時北京にあった省別会館名が載っているので、参考に当時の米市胡同にあった会館名を次に書き写してみました。


河南・・・中州会館、光州会館
江蘇・・・江陰会館、徐州会館
安徽・・・六安会館
湖南・・・寧郷会館
四川・・・重慶会館
広東・・・南海会館


以上、この胡同にあった会館やその会館と関係の深い歴史的人物などについて触れたわけですが、今回はこの位にして、次回は簡単ではありますが日本軍占領期のこの胡同について触れると共に、2012年8月に歩いた時のこの胡同内の様子を紹介させていただきます。

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