北京·胡同窯変

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第260回 胡同回憶・保安寺街(中)

こんにちは。
いつも当ブログにお付き合いいただきまして有難うございます。
今回は、呉佩孚の「綏靖(すいせい)委員長就任」から唐突に顔を出す「逝去記事」までの流れを追いかけてみました。


内容は、不本意ながら話題が戦争関係という、カタく、しかも、重い内容になっております。が、呉佩孚について語る場合、どうしても避けて通ることのできない話題ですので、その点をぜひ諒とされ最後までお付き合いいただけましたならば光栄です。何卒よろしくお願い申し上げます。前置きはこの辺にして、では・・・


日中戦争が膠着状態に陥っていた(※)1939年1月の30日、「和平救国会」なる組織がその「宣言文」を発表しました。(※)この点については後述。


その宣言文はおおむね戦時下における国民の目に余る惨状と焦土と化した中国国家存亡の危機を切々と訴え、日中間にいち早く和平の招来することを願いつつ、そのため我らは救国委員会を組織し、呉佩孚将軍が「綏靖(すいせい)委員長」に就任することを求め、速やかに「和平の実現」「政局の安定」を計り「東亜永遠の幸福を保持せんとす」という、いかにも宣言文らしく実に調子の高い熱のこもったもので、ある意味これは歴史的名文ではないのかと思われ、いささか長くなるのですが、あえて次に書き写してみました。


「和平救国会宣言」


《我が国は有史以来外人との間に事件発生し、和戦その一を選ぶに当り大勢和を許さざるに和し、却って国を保つこと能わず戦うの要なきに戦って危殆に陥り初めて和を講ぜし例乏しからず、和戦の方針常に事実に乖離し、遂に滅亡を招きしこと歴史上昭然たり、宜しく鑑みざるべからざるなり、それ中日両国は元唇歯の国にしてともに相求め相援け、以て東亜の和平を保つべし。然るに今不幸にして鬩牆の争いを啓(ひら)き悪戦苦闘する事既に一年有余、黄河及び長江流域における名城、都邑の陥落せしもの数百、人民の炮火、饑疫に死せしもの数百万の多きを算うその路傍に流離し、溝渓に逃避し、帰るに家なきものに至りてはその数計るべからざるなり、誰が父母なからむ、誰か妻子なからむ、凡そ人たるもの皆同情すべく、天亦この大凶を弔せざらんや、吾人思うてここに及べば肺腑ために焼かるるを感じ声を放って泣かざるを得ざるなり。


然るに国人中なお一部主戦論者に圧迫せられ、明らかに不可なるを知りつつ敢然和平を主張し、国家の命脈を保存せんとする勇なきものあり、かくの如き虚名に、周囲に追随して実禍を受くるものというべく、宜しく兵火の惨害を知らば古来名訓のあるあり、和戦の得失を弁別するに難からざるべし。今や生死の関頭に立ち大いに良心の覚悟を促がし、理知を以て判断し躊躇することなく元気の維持に振起せざるべけんや、左に戦うべからざる理由数項を挙げて大方の明鑑を望む。



1、焦土抗戦失策


盧溝橋事件以来日本の進軍は西綏遠より風陵渡に到り、北は山海関より徐州(※1)に迫り、東上海より武漢(※2)に迫り、南は恵州の以東より広東(※3)の撃たるの結果を見たり、かくて一年亙り悪戦苦闘を経てなお未だ大計の変換を思わざるは明かに知者というべけんや、その一部堤防の決潰は百万の精霊を滅し、旬日の軍事は莫大の財物を費し、四民業に営むに由なきに至れるにあらずや、退却の際舎屋を焼き或は破毀(はかい)し、昔日繁華の邑(まち)をして悉く焦土と化せしむるに至りてはこれが前途を目睹するもの慄然恐怖に堪えざるなり。


(※1)華北と華中を連結する要衝の都市。日本軍は38年5月19日に占領。
(※2)南京陥落後の国民政府の首都。38年10月26日漢口を占領、武漢地区を制圧。
(※3)38年10月21日に占領。中国の主要な補給路線である香港ルートの遮断を主な目的として占領。中国の重要都市のほとんどを占領下においた日本軍ですが、しかし「これが日本の軍事動員力の限界であった」そうで、たとえば武漢作戦だけでも約30万余という大兵力を動員。武漢作戦終了時の日本陸軍は、中国大陸に「24個師団、満州・朝鮮に9個師団を配置し、内地に残されたのは近衛師団一個のみだった」そうです。それに対する中国側は、10月25日、蒋介石が「国民に告ぐる書」を発表し、「敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」と述べ、中共軍はある会議で、11月6日、毛沢東の持久戦論にもとづき、抗日戦が両軍が対峙する「第二段階に移転する移転期」にはいったことを確認し、「国共合作を強固にし・・・不撓不屈の民族自衛戦争を行なうこと」を決議しました。(江口圭一著『十五年戦争小史』より。)


2、戦闘継続の困難(不可能)


武漢既に失し、土地及び人民の喪失全国の大半におよび募兵および戦費の籌劃至難となりたるのみならず、広東陥落以来海洋運輸の途断絶したるをもって兵器の補充不可能
なれば国内の識者は戦争の継続に対し深く疑懼を抱かざるを得ず、戦勝者たる一方に於ても武器を消費すること一年有余よろしく余力を留めて共産の蔓延を防ぐべし、即ち戦を罷めんこと蓋し目下緊急の必要事というべきなり。


以上の事実は誠に顕著にして一般の認むるところ、戦の不可なる真相は十分に暴露せられたり彼の鳥類の暴君梟すら勢を以て進退を決す。況や真に国家を計るに急なる士に於てをや、宜しく全民族を犠牲とすること勿れ戦うべくんば戦い、罷むべくんば罷むべく、徒らに意気を逞うし大言壮語すること勿れ。(中略)


かくの如き中外諸賢のなすところ人時ともに異なると雖も国のために計るは全く同一にして国家存亡の秋(とき)に際し、一党の利益を顧みず、個人の地位を謀らずその赤謄忠心によりて妙計偉力を定め国家の運命を保全し邦基を安定しむるというべし、吾人は全国の山河をかけて孤注一擲の愚を敢てし国家亡び泣血の術なきに至らしむるを願わざるが故にこれに倣わんと欲するなり、吾人は中華民国の一分子として、中華民国一部の責任を負担すべきは当然なり、国家存亡断続の別れんとするこの際こそ将に吾人は挺身報国の誠を以て水火を避けず国難に赴くべき秋なり。これ即ち微力自ら揣(はか)らず、敢て同志を糾合し共に和平救国会を組織し呉佩孚先生に懇請してその綏靖委員長に就任せられんことを求め、進みて党部各軍の招撫を実行し、速かに和平の実現、政局の安定を計り誠意を披瀝して親睦を講じ以て東亜永遠の幸福を保持せんとする所以なり、希くば各会の領袖、地方軍政長官及び一般父老兄弟姉妹諸君、この趣旨を諒とし斉しく起ちて危急の大局を救え、将に絶えんとする国運を挽回するに協力せんことを茲に謹みて宣言す。》


《「和平救国会聯盟」のメンバーについて 》


以上が「宣言文」ですが、続けて「和平救国会聯盟」としてそのメンバーの名前が記されており、メンバーを見ると1937年12月日本占領下の北京に成立した「中華民国臨時政府」から3名、1938年3月日本占領下の南京に成立した「中華民国維新政府」から3名、天津、上海などから12名、合計18名で組織されていたことが分かります。メンバーは次の通り。


和平救国会聯盟
王克敏、梁鴻志、温宗堯、朱深、王揖唐、陳群
陳宧、袁乃寛、陸宗輿(※)、馮恕、呉廷夑、
陸錦、呉毓麟、王廷禎、楊壽桓、天人文、
江天鐸、鄧邦舫


次に王克敏から陳群までの臨時政府並びに維新政府に所属していた人物に限り、当時の役職名を記してみました。ただし兼職名は省略。


中華民国臨時政府に所属
王克敏・・・行政委員会委員長
朱深・・・・行政委員会法政部長
王揖唐・・・行政委員会交通部長


中華民国維新政府に所属
梁鴻志・・・行政院長
温宗堯・・・立法院長
陳群・・・・内政部長


※余談になりますが「陸宗輿」の故居が北京の東城区建国門北極閣三条(胡同)にあり、現在も保存されているようです。住所番号は22号院。私は今回初めて知り未見なのですが、一見の価値ありと思われますので、コロナが大人しくなってから出掛けてみたいと思っています。


《「宣言文」発表までの流れ 》


なお、今回目にした資料によると、上の「宣言文」発表以前次のような準備がなされており、宣言文発表までの流れは次の通り。


〇1月24日、王克敏と梁鴻志の二人が、呉佩孚自宅を訪ね、和平運動促進並び出盧に関し懇談協議の結果、両者の意見ほぼ一致。


〇1月25日、和平救国会を結成。王揖唐、温宗堯の二人が同会代表として即日呉佩孚を訪ね運動方針を協議。その結果、呉佩孚を綏靖委員長に推戴することに決定。


〇1月30日、宣言文発表。


また、同資料によると1月23日以来呉佩孚への各界からの通電による出馬要請があり、それに対して呉氏自身も復電していることが分かります。出馬要請した団体名、個人名が具体的に判明しているものを記すと次の通り。


湖北各県聯合会代表、北京教育総会、北京市商会、上海商会聯合会、上海孔教会、国学研究会、民治促進会、産権公益聯合会、上海留欧同学会、上海山西錢業公会、並びに江天鐸、江朝宗、鄧孝先など。※具体的な名称は不明ながら呉氏は各軍隊、各学校にも復電。



《 呉佩孚の談話について 》


さて、上に呉佩孚を綏靖委員長に就任させんとする宣言文を掲げましたが、宣言文の発表された翌31日、呉佩孚は東城区の什錦花園の自邸で内外の記者団と会見し、綏靖委員長に就任する旨を表明する次のような談話を発表しました。


《 此の一年来南北共に騒然たる有様で戦渦の惨澹たる状態は誠に痛心の極みであります。第三インターナショナルは更に之を利用し煽動致しますので、かかる状態を続けて行けば、只中国衰亡と赤化の横行を見るのであります。不肖遠く古今の歴史を考え外世界の大勢を考えまして一日も早く平和を図り危急を救う必要なることを痛感する次第であります。
 昨年12月22日の日本首相近衛公の声明(※)を読みまして、一般中国人は中日関係に処して既に解決の契機を得たものと思って居ます。依って国内有識の士は起って平和を呼び求むることに恰も風雲を捲起こす如き状態であります。不肖菲才を以て此の綏靖の大任を委嘱せられたのであります。不肖素より老衰の身でありまして時難に堪え得るものとは思いませんが、只国家興亡の此の危機に際して匹夫と雖も其の責に任じ懇篤に鞭って力を致し、救国の熱意に燃ゆる諸公の後に従って才力の及ぶ限り馳駆の効を致さんとするものであります。幸にして臨時維新両政府の援助並に日本朝野軍政各方面の同情の下に地方の治安を収拾し民心を安んずる事を計りたいと思います。此の事は甚だ広範囲に亘る事でありますが、逐次着手出来ることと思われます。新聞報道界の諸公は輿論の先駆をなる人々でありますので、特に今後のご援助を賜わらんことを切望する次第であります。》
※「善隣友好、共同防共、経済提携」をうたった近衛声明(近衛三原則)。


この談話を読みながらいくつかの疑問が出てきたのですが、その中で最も気になったのは、呉佩孚が委員長に就任という組織が、和平救国のために尽力することを目的としたそれであることは十分すぎるほどこちらに伝わってくるのですが、にもかかわらずこの肝心の組織が具体的にどのような活動をするのかが見えてこないという点でした。談話の中に「地方の治安を収拾し民心を安んずる事を計りたい」「此の事は甚だ広範囲に亘る事でありますが、逐次着手出来ることと思われます」と書かれているのをみると、この談話が発表された時点ではこの組織の活動内容は具体的には決定されていなかったのではないか、そんな疑問が頭をよぎった次第です。


そんな疑問を抱きながら資料を読み続けていると、「綏靖委員会の結成」という記事に逢着しました。では、「綏靖委員会」とは、いかなる組織なのか。その記事を整理してみるとおおむね次の通りです。


《 綏靖委員会に関して 》


綏靖委員会・・・河南省開封に組織。
目的・・・蒋介石政権(中国の中央政府たる国民政府、引用者)を打倒。


「2月11日」に第一回準備会議を開封の旧豫皖綏靖公署に開催し、呉将軍の乗り込みまでの「暫行組織」を次のごとくに決定。


〈 暫行組織について 〉


綏靖委員長・・・呉佩孚
綏靖委員会主任・・・胡毓坤(旧東北軍第一軍長)
綏靖委員会副主任・・洪府国(前天津海関監督)
企画組長・・・・・・氾浦江(前上海公安局長)
総務局長・・・・・崔建初(胡毓坤軍長参謀長)
機要組長分掌・・・陳異三(胡毓坤軍長秘書長)
委員
胡毓坤、洪府国、氾浦江、崔建初、陳異三、富双英(旧東北軍第十二軍長)、
程希賢(旧石友三軍参謀長、天津公安局長)、張九卿(旧東北軍師団長)、
高勝岳(前北京軍事分会処長、現任臨時政府治安部参事)、丁漢民(前冀察綏靖公署参議、前北支軍事分会参議)、王埼(前北京憲兵司令官)、張質實(旧東北辺防司令長官公署弁理兵站事)、
蒋雁行(旧呉佩孚参謀長)、その他。


〈 暫行組織についての補足説明 〉


さらに資料によると、この暫行組織はあくまで一時的なもので、「呉将軍の開封乗り込み」及び「綏靖軍」の組織編制によって改訂され、「総弁公庁長官」に「胡毓坤」が任命され、その下に「参謀、経理、秘書、医務、安撫、副官の六部」が設けられ、その陣容も強化されて組織機構が決定される予定であること、呉佩孚将軍の開封乗り込みが多少遅延するものと見られ、それまでの全権は胡毓坤が握ることになっているとのこと。


〈 綏靖軍について〉


また、この資料は上の記事に続けて「綏靖軍」関係についても触れていて興味深い。曰く「既に綏靖委員会に参加を見ている実勢力は開封南方に駐屯する河南の某部隊一万数千名に上っているが、特使派遣や電報の形式により綏靖軍参加の意を明瞭にした蒋介石側部隊も相当数に上り、呉佩孚将軍も自ら陣頭に立ち実践工作を開始するに至れば一大勢力となることは確実であろう。因に呉佩孚将軍は目下依然北京にあり、近く更に和平救国と出師の通電を発して支那民衆及び支那軍隊に呼びかけ、綏靖の力強き巨歩を踏み出すべく準備を進めている。」


記事は実に頼りがいのある勢いのある書きぶりです。しかし、以上の記事には「但し書き」のようなものが何気なく織り込まれていることに気付きます。たとえば、記事中に「呉佩孚将軍の開封乗り込みが多少遅延するものと見られ」とか「呉佩孚将軍も自ら陣頭に立ち実践工作を開始するに至れば」などの文言がそれで、いくら文末に「呉佩孚将軍は目下依然北京にあり、近く更に和平救国と出師の通電を発して支那民衆及び支那軍隊に呼びかけ、綏靖の力強き巨歩を踏み出すべく準備を進めている」と書かれていても、見方によっては何やらこの記事は実に頼りないもので、たとえて言えば、花多くして実少なし、もっと言えばこの記事に何やら胡散臭さを感じてしまうのは果たして私だけか。より具体的に記すならば、この記事の読後の感想は、呉佩孚はなぜ開封に乗り込んで行動を起こさないのか、彼は北京で一体何をやっているのか、要するに綏靖委員会という組織の成立の実現には何やら不安材料があるのではないか、そんな疑問、懸念が生じてしまうというものでした。


《  呉佩孚将軍の逝去 」という唐突な終わり方 》


今回目にした資料は昭和16年3月10日に「日本国際協会」から発行された『昭和14年の国際情勢(1939年)』というもので、当時あった主だった出来事を紹介したものですが、呉佩孚と「綏靖委員会」との関係(上述のもの)について書いた後、この資料は後に掲げる記事で「呉佩孚」についての記事の項を結んでいます。


結論を言えば、この資料には呉佩孚と綏靖委員会との関係がその後どうなったのかが書かれていないのです。書かれているのは、「呉佩孚将軍の逝去」という見出しを持った記事で、それは次のようなものでした。


《 呉佩孚将軍は豫て敗血症の為め北京什錦花園の私邸に療養中であったが、12月4日午後7時私邸に於て遂に逝去した。享年68(ママ)。呉将軍は1872年山東省蓬莱県に生れ若くて軍界に投じ、生前波瀾曲折を経た人であるが、事変勃発後中央軍の大敗を見るや救国の念もだし難く、昨年1月30日反共救国のスローガンを高く掲げて綏靖委員会を結成、自ら委員長となり、胡毓坤氏を開封に送り、綏靖軍の結成に努めていたが、中道にして斃れたるは遺憾である。》


《 捕らぬ狸の皮算用にならぬよう頑張りますというメッセージをこめた結び 》


呉佩孚の死をめぐっては日本軍による暗殺説という、はなはだ謎めいたものもあるのですが、その点についてはおくとして、私がそれ以上に興味を持ったのは、呉佩孚が綏靖委員会の委員長に就任してから12月4日の死を迎えるまでに、一体どのような事を考え、どのような行動をしていたのかという点でした。次回は「綏靖委員会の委員長就任」から「呉佩孚将軍の逝去」までの間にひろがるおよそ10ヶ月ほどの空白の時間、たとえていえば空白のページを少しでも埋めることができればと思います。と、書いたものの、捕らぬ狸の皮算用にならぬことを我ながら願っています。


カタく長い記事に最後までお付き合いくださいました皆様、大変ありがとうございました。大変お粗末さまでした。では。

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