北京·胡同窯変

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第261回 胡同回憶・保安寺街(後の1)

長期化した日中戦争、そんな折和平救国のため綏靖委員会の委員長に就任した呉佩孚。その後の呉のことが気になって調べてみると、なんと 前回紹介させていただいた和平救国会や綏靖委員会の設立などのことごとくがいわゆる「謀略」だったことが判明。そこで今回はその「謀略」記録を三点取り上げてみました。これら三点の記録が前回ご覧いただいた記事内容の下敷きになっていることを伺うことが出来るのではないでしょうか。


下の写真は呉佩孚が暮らしたことがあるという保安寺街の旧居。
当時は取り壊されずに残っていました。写真に写っておられるのは
当時の住民の方。撮影は昼食の時刻でこの写真には写っていないの
ですが、周辺では工事関係者が食事中でした。



・・・・・


謀略の記録(その一)


たとえば『和平救国工作指導要綱』(昭和13年11月11日作成、甲集団司令部)なる記録にはこんな記事が載っています。(原文は漢字とカタカナで書かれていますが、読み易さを考慮して「カタカナ」は平仮名に直しています。また、注意書きのない場合に限り、判読できなかった箇所は〇〇〇で表しています。)


第一、方針
一、土肥原機関及北支、中支両軍司令官の密接なる連絡諒解の下に恰も民意に依り和平救国会を組織せしめ蒋政権勢力の切崩及離散軍隊の収編工作を実施せしめ其成果を挙げ大功
を樹立せしめ名実共に現時局収拾の実勢力を培養せしむ
ニ、本謀略工作中呉佩孚を中心とする工作は現存政権の範域外に於て行ふものとす
三、本工作成功の見透確実となれば現存政権を合し新中央政府の樹立に着手せしむ


続いて「第ニ、指導要領」があるのですがそれは省略。


(上の記録についての手短なコメント)
上の記録の「一」にある「和平救国会」なる語はその役割ついて前回のものと違いがあるものの前回の記事にも登場。「ニ」の「現存政権の範域外に於て行ふ」との部分は前回の場合で言えば「綏靖委員会」が「開封」に設置されたことに該当。「三」の「新中央政府」とは断るまでもなく当時存在していた蒋介石を中心とした国民政府に対抗して日本が新たに中国国内に設立しようとしていた政府。この点については後述。


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謀略の記録(その二)


こんな記録も残っていました。
その表題からも察することが出来るのですが、上の記録よりも呉佩孚に関する内容が前回紹介した記事により近づいているのではないかと思われます。表題は『呉佩孚工作大要案』、作成場所「東京」、年月日は「昭和13年11月17日」となっています。


なお、この工作に関して「一」から「八」までの項目があるのですが、ここでは呉佩孚に関係の深い「三」「四」「五」をご覧いただきます。


第一期 和平救国工作
三、呉佩孚を中心とし官民有力者を以て北京に停戦救国会(耶戦救国会)を組織し「救国救民の為即時停戦和平を計らさるへからさる」旨の通電を発す
四、臨時政府及維新政府は本工作と平行して反共救国運動を促進し以て停戦救国会の工作に呼応す
五、停戦救国会は第三項通電発出後なるへく速かに呉佩孚の出馬を懇請し中華救国綏靖委員会を組織し呉佩孚をして其委員長たらしめ和平救国賛同軍隊の集中収編に当らしむ
中華救国綏靖委員会は不取敢其筹備処を北京に開設するもなるへく速かに委員会を京津(北京天津,引用者)以外の地に設く


(上の記録についての手短なコメント)
上の記録の「三」「四」「五」の「停戦救国会」は前回の記事では「和平救国会」。
この記録では「臨時政府」と「維新政府」が「停戦救国会」に協力することが書かれ、「五」では呉の綏靖委員会の委員長への出馬懇請の件がはっきりと書かれています。前回の記事で「和平救国会」のメンバーとして臨時政府の王克敏や維新政府の梁鴻志などがその名を連ねていました。


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謀略の記録(その三)


三点目の記録は、昭和13年11月17日に北京の「堀内参事官」から日本の「有田外務大臣」宛の電報です。


この記録の「一」と「二」を見ると当時「土肥原機関」と「軍司令部及び特務部」との間に呉佩孚の処遇や「新中央政府」の樹立の手続きをめぐり意見の食い違いがあったことが記され、「三」の前半部分には上の両者が結局どのような折り合いをつけたかが報告されています。なお、この記録は記録中に登場する「喜多部長」の「堀内参事官」への報告に基づいています。ちなみに喜多部長とは中国通として実力を持つ陸軍軍人の喜多誠一さんのこと。


一、新政府樹立工作に関し最近土肥原機関に依り呉佩孚を首班とする中央政府樹立の工作急激に具体化し(聯合委員会側に於て行へる反共救国運動にも刺戟せられ)大体本月二十日頃より各方面の要人に対し(蒋介石以外殆んと一切の要人を含む)反蒋、反共の通電を発し二十五日を期し中央政府の準備期間たる元老院を組織し之をして急速に呉を大総統に推戴せしむる運となるに至れり


二、然るに右工作は軍及臨時、維新政府側との聯絡を欠き居たる為軍司令部及特務部に於ては中央政府は漢口、広東等に政権樹立せられ蒋政権内より要人引抜の能否に関する目途付きたる時期に於て徐に樹立するを可とすへく呉佩孚の工作に引摺られ急速に中央政府樹立に着手するは臨時、維新政府を動揺せしむるものとして一時意見の対立を生するに至れり


三、右に関し十六日喜多部長、本官(堀内参事官を指す)を来訪し右の如き経緯を述へ結局両者に於て会談の結果元老院の樹立の工作は一先つ之を延期することとし不取敢呉を委員長とする綏靖委員会なるものを徐州、開封辺に(北京に置くは甚た迷惑なりとの意見の為)設置し之をして通電其の他に依り反蒋、反共の工作を実施せしめ其の反響を見たる上徐々に中央政府樹立の工作に移ることに大体話合纏まり土肥原及喜多両氏共十八日上京中央と協議の上決定を仰くこととなりたる趣説明ありたる・・・以下略


(上の記録についての手短なコメント)
「一」を読むと当時呉佩孚を首班とする、つまり大総統とする中央政府を樹立しようとするグループ(その名は土肥原機関。土肥原さんは不名誉にも謀略の土肥原として著名だったと言われています)があったことが分かります。これは当時呉佩孚がそれほど信頼されていた、言い換えるとそれほど「新中央政府」に必要な人物であったことの証左と考えてよいのではないかと思われます。ならば問題はなぜ呉佩孚がそれほどに信頼されていたのかということですが、その点については回を改めて取り上げたいと思います。
「二」に「中央政府は・・・蒋政権内より要人引抜の能否に関する目途付きたる時期に於て徐に樹立するを可とすへく」とありますが、この中の「要人」とは具体的には当時国民党副総裁で和平派と目されていた「汪精衛」(汪兆銘)を指しているかと思われます。詳細は省略しますが、結局日本は和平派の有力者汪精衛との合作協力関係を築くことに成功、日本政府や軍部の工作員たち並びに汪精衛関係者たちは呉佩孚、臨時政府及び維新政府協力などに協力させ汪精衛を中心とした新中央政府(日本側からすると親日政府、中国側からすると偽政府または傀儡政府)を南京に樹立しようと奔走しました。


・・・・・


さて、今回は前回ご覧いただいた「和平救国会」や「綏靖委員会」などが謀略によって設立された組織であることを示す記録三点を紹介いたしました。


「目には目を謀略には謀略を」と言ったところでしょうか、さらに呉佩孚について調べていると「中央通信」という通信社が1939年(昭和14年)2月1日に放送した分の記録が目に飛び込んできました。2月1日とは呉佩孚が綏靖委員会の委員長に就任する旨を記者団を相手に発表した直後。意味の取りづらい部分もあるやもしれませんが、今回の結びとしてその一部をご覧いただきます。


中央通信 2月1日放送 
記録作成者 杉山部隊報道部


香港1日電


・・・中外記者130余名は30日呉と会見したが事前に敵特務機関は談話の原稿を準備し当日発表したところ計らずも呉が接見の時に語った内容と敵側が予め用意した原稿が完全に相反して居ったので、英国側は未だ接受の意を表示せず条件三項目を提出してこの条件通りでない以上真実の平和は得られないことを明らかにした。又各外記者は驚愕の叫びを発して敵〇視員をして色を失はしめたので敵側は直ちに検査機関に命じて外国記者の電報を差止めると同時に敵か用意した談話を同盟通信社を通じて公表し一時を糊塗せんとしているが呉は極めて強硬で如何なる脅威誘惑も顧みない態度を示している。これを聞いて平津の民衆は大いに意を安んじている。


上の記録のポイントの一つは呉佩孚が発表したものは敵が用意した談話を同盟通信社を通じて公表したもの、という所にあると思われますが、この記録の内容ははたして真実なのかそれとも蒋介石系の通信社が流した虚偽情報なのかそんな疑問、疑惑に直面して途方に暮れて今日に至っている次第です。もし仮にこの記録が真実ならば前回ご覧いただいた呉佩孚の声明は虚偽だったということに・・・。


ちなみに記録中に登場する同盟通信社とは昭和11年1月に日本全国の日刊新聞社および日本放送協会によって設立された国策的な通信社でした。(現在でもそうですが)断るまでもなく戦争は何も銃火器を使ったものだけではなく過激な情報戦でもありました。


次回は呉佩孚出馬要請の失敗挫折やそれでも諦めずに呉佩孚の出馬を望む日本側の抱える理由、出馬要請に対する呉佩孚の考え方や態度などについて当時飛び交っていた偽情報という数多の弾丸から出来うる限り巧みに身をかわしながら日中戦争の舞台裏をさらに垣間見る予定です。


主な参考資料
アジア歴史資料センター公開資料(番号はレファレンスコード)
〇「和平救国工作指導要綱」昭和13年11月11日、甲集団司令部 (B02030549800)
〇「呉佩孚工作大要案」於東京 昭和13年11月17日 (B02030547900)
〇「昭和13年11月4日から昭和13年11月30日」 (B02031726100) (23/42)
〇「2月1日放送」 (C11111640100) (1/19~2/19)
参考までに書いておきますと、
※閲覧の場合は「JPEG形式」でご覧いただくと便利かと思われます。さまざまな操作が可能です。
※レファレンスコードの一文字目のアルファベットについて。
Aは国立公文書館、Bは外務省外交資料館、Cは防衛省防衛研究所などの資料を示しています。
以上

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