北京·胡同窯変

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第262回 胡同回憶・保安寺街(後の2)

1939年(昭和14年)2月1日中央通信が放送した分の情報は真実かそれとも虚偽か、そんな疑惑を抱きながら呉佩孚について更に調べていると次の記録に遭遇してしまった。


・・・・・


便宜上まずその前半部をご覧いただきます。原文は漢字とカタカナですが、ここでは読み易さを考慮してカタカナを平仮名に直しています。また、判読できなかった文字については「〇」で表しました。


表題『対支謀略二関スル第二部長口演要旨』
(イ)「呉」工作。

『対支謀略二関スル第二部長口演要旨』
(原文) 外務省外交資料館より



《呉佩孚を出馬せしめ閲歴声望により蒋政権の内部崩壊特に雑軍の寝返りを策し且は新中央政権樹立の為めの準備工作たらしめんと欲し相当の期間を持って進めて来りし所「呉」の出馬条件に関し彼我の意見に完全なる一致を見るに至らさらし為め去る三月下旬を以て我か方は一応其の正式出馬要望に関する工作を中止し不取敢(とりあえず)開封付近を基点とし「呉」を看板とし専ら雑軍の懐柔帰服に関する施策を進め来れる次第なり》


上の記録で注目していただきたいのは、次の2点。
1点目・・・「去る三月下旬」に呉佩孚側と日本側の意見が合わず、日本側が呉の出馬要請を中止していること。※詳細は省略しますが「去る三月下旬」とは、1939年3月下旬のことを指しています。
2点目・・・中止後も「呉」を看板として、開封を基点として雑軍の懐柔帰服に関する施策を行なっていること。


もし私の捉え方に間違いがないならば、上の2点から次のことが分かるのではないでしょうか。
簡単に言えば日本側は呉佩孚の出馬要請に失敗しているということに尽きる。より具体的に言えば呉は実質的に開封に置かれた「綏靖委員会」の「委員長」などに就任しておらず、前々回の記事で見られた「綏靖委員会」の「委員長」呉佩孚というのは「蒋政権の内部崩壊」「雑軍の懐柔帰服」のためあくまで呉佩孚の名義だけを利用したものに過ぎなかったということ。


・・・・・


次に後半部をご覧いただきます。
後半部では、呉の出馬要請に失敗しつつも呉佩孚を必要とする日本側の姿勢とその理由がはっきりと示されています。


《「呉」の利用価値判断に関しては現地に於ける関係者中にも見解の差異あるやに感しあるも当部としては重慶の切崩し工作上特に「汪」に欠ける所ありと認むる軍権方面の切崩し工作に関し「呉」の出馬に対し依然相当の期待を有するものなり従って衷心「汪」「呉」合作を希望するものにして之か実現を見るに至らんか目下停頓状態にある「呉」の出馬問題も自然解決し本工作は一段の飛躍を来すものと確信する次第なり即ち「呉」の出馬問題は「新なる状況」に基き再発足するものとの観念を以て律せんとするものにして若し「汪」との合作に関し「呉」の到底纏らさるか如き難題を持出すか如き場合に於ては茲に「呉」工作を全然断念すへきや否やの岐路に立つものにして此のことは将来の問題なりと思惟しあり》


上の記録中に「汪」「呉」合作なる文言がありますが、これは当時の日本が蒋介石を首班とする国民政府(当時政府は重慶に移っていた)内の和平派である汪精衛(汪兆銘)を中心に呉佩孚などの協力のもと、重慶の国民政府とは別に南京に「新中央政府」を設立せんとする工作を指しています。上の記録を見ると「汪精衛」には政治力はあってもどうやら「軍権方面の切崩し」のためには力不足な所があったようで、その弱点を補完する意味で「呉佩孚」という人物の存在が必要だったことが分かります。呉という人物に焦点を絞って言えば、おそらく呉佩孚なる人物は軍人として知識面・技術面で優れていただけではなく、人間的にも魅力に富んだ、多くの人に慕われる人物だったのではないかと推測されます。


・・・・・


ちなみに今回調べていて目に触れた数点の「汪」「呉」合作及び「新中央政府」をめぐる記録の中から参考に2点を選んで次に掲げてみました。



『「汪」「呉」工作指導腹案』
(原文) 外務省外交資料館より


1点目
表題『「汪」「呉」工作指導腹案』
昭和14年5月18日
大本営陸軍部第八課


「汪の来朝に方りては左の腹案を以て指導す」とあり、「二,指導要領」の「2」と「3」には次のようにありました。


2、呉佩孚其の他実力派との結び付及既成政権との協力に依り「汪」政府を樹立せしむ之か為には先つ「呉」「汪」合作を立前に指導するものとす
3、右「汪」政府は将来の中央政府樹立の為の「準備委員会」的性質を具備するものにして其の名称、内容等は汪と協議決定す


『「汪」工作指導要領案』
(原文) 外務省外交資料館より


2点目
表題『「汪」工作指導要領案』
昭和14年6月2日
北支、中支合同案


1、汪を首領とする支那中央政府(以下新政権と称す)を樹立す
3、新政権は臨時、維新政府を母体として広く人才を求めて組織し転向重慶政府要人をも加入せしむ
呉佩孚をして「汪」と合作せしむる如く努力す


・・・・・


さて、上に呉佩孚出馬要請の失敗及びそれでもなお出場要請を継続する日本側の理由や決意をご覧いただきましたが、上の記録を書き写しながら、ならば日本側が出馬要請に失敗したのはなぜか、あるいはどのような点で呉佩孚とその意見が一致しなかったのか、そんなことを考えながらさらに資料を調べてみました。


結論を先に書くと、残念ながらその理由や原因を記した資料に今回は辿りつくことが出来ませんでした。そこでその代り、ひょっとして呉佩孚が日本側の要請に応じられなかった理由なり原因なりが潜んでいるかも知れないという思いを抱きながら、呉佩孚が呉の出馬要請のために尽力した人々と会談の折に発した数々の言葉の中からいくつかを選んで次に掲げてみました。


【呉の日本並びに汪精衛との合作に対する基本姿勢】
まず、日本並びに汪精衛との合作に対する呉佩孚の基本的な姿勢を知ることの出来る文言を挙げると次の通りです。


呉:・・・時期成熟する時は起て日支両国兄弟の友邦親善の為に努力する決意あり 機到れは貴国政府代表たる杉山方面軍司令官との面晤(めんご)に依て一切の大事の収束に当らんとす (『岡野呉佩孚会見記』より。日本人の旧友・岡野増次郎氏が東城区の什錦花園の呉邸を訪ねた折のもの。日付は昭和14年6月7日)


呉:・・・閣下(大迫少将を指す)申さる処によれば貴国朝野の好意は実に感謝する次第にて和平を共謀することも余の最も希望する所にて〇に汪先生と合作して中日紛糾を解決し時局を収拾することは余の最も賛同する所なり(『呉佩孚大迫少将会見記録』より。大迫少将が東城区の什錦花園の呉邸を訪れた時のもの。日付は昭和14年6月18日。)


【余は在野の人なり】
呉:・・・予は今猶ほ在野人の身の上てあるから陳中孚(呉側の人物)に対しても命令関係に措くことはあり得ない  皆な之れ何れも朋友関係に係はるものてある  将来出山後に至り始めて命令指示を為すことが出来るのてあるか今此時に在ては指揮命令することは便ならす(同上『『岡野呉佩孚会見記』より。)


上記と同趣旨の文言が上に挙げた『呉佩孚大迫少将会見記録』にも見られたので挙げておきました。
呉:・・・余は目下在野の身なれは命令を行使すること不可能にて未た代表者を指派して交渉するに便ならす御了解を乞う


【各々の立場を尊重すべし】
『呉岡対談』より
日付は昭和14年7月5日。


呉:・・・日本には日本の立場があり支那には支那の立場かある 日本の独断を以て支那に〇〇されては困る日本か戦争を耶(や)めすこの儘やっていくと言はるるならは御任せする外はないか予を出盧せしめて時局収拾に当らしめんとするなれは予の仕事の出来るやう面子を立てて貰はねはならぬ


【呉佩孚の人心収攬術】
『呉氏、汪氏ノ運動ヲ評ス』より
前出の岡野氏が呉氏と対談したときのもの。
日付は昭和14年8月10日。


呉:・・・日軍の監督下に在て、御用政府を組織するやうの形式に見られては、到底老将(蒋介石)より支那大衆就中(なかんずく)青年層の人心を切離すことは出来ぬ、其の実は日支両国の為にすることは当然てあるか、表面はどこ迄も支那第一主義の様に見えねは・・・人心の収攬か出来ぬ、それか出来ねは、時局を〇導することか難かしい、結局信を天下に失ひ〇〇友邦への信義を欠くことになる、・・・思ふに支那を率するの道は、〇〇と信義のみ、


・・・・・


呉佩孚をめぐる当記事もいよいよ終幕を迎えました。
次に呉佩孚の逝去に関する記録を数点ご覧いただきます。


【蒋介石側の通信社などによるもの】
日本と協力関係に身をおいていたにもかかわらず呉佩孚が立場の違う蒋介石側の人物たちにも慕われていた人物だったことが分かると共に呉の死について暗殺説の出所はひょっとしてここか?と思われる記録内容です。


昭和14年 
上海12月9日後発
本省9日夜着
野村外務大臣宛
三浦総領事


六、七日重慶発中央社及外電は呉佩孚の死亡に関し蒋介石、宋美齡、孔〇〇、于右任及王〇〇等重慶政府要人は続々として弔電を発したる旨並に中央日報は六日の社説に於て精神的抗戦に偉大なる〇〇を〇らし支那の民族史上光輝ある一頁を占むへしとて其の死を悔やみたるか七日には呉は敵国医師の為殺害せらると題し呉は三日日本医師の〇〇的手術の為昏睡状態に陥り翌日蘇生後親戚知友との会見を希望せるも夫人以外接見を許されす夫人に対し余は死ぬ方か〇〇〇となり〇に死亡せりと〇如何にも其の死か〇〇に依るか〇〇〇〇〇〇〇りをなし居る旨報し居れり


【呉工作にかかわった日本側の言説】


〈1点目〉
至急親展
昭和14、12、5
秘電報
竹電第59号
次官・次長宛
〇機関長


川本大佐より
呉佩孚は病勢急に悪化し手術を行ひしも効なく本四日午後六時死亡せり、之より先同日午後二時(重体に陥る直前)小官を招き左の意志を表示せり、「予は既に咽喉を傷め多くを言ふこと能はざるも予病癒れば君等と共に協議の上必ず出山して共に浩劫(国家の大難)を挽回す」尚遺言病気の経過等別に報ず


〈2点目〉
親展
14、12、6
極秘電報
軍務局長・総務部長宛
竹機関


呉佩孚突然病死し竹工作の終末を余儀なくするに至りしは事変解決上痛恨惜く能はざる所なり
当方目下の工作として呉佩孚の反省を促す為冷淡なる態度を執りつつある矢先呉佩孚の発病を見たる次第にして発病に方りても呉側の疑惑を避くる為医師の推薦等当方より直接干渉乃至指導を避け呉佩孚の家族、側近者を通じ間接的指導を行ひたり従て日本人医師の選定も呉佩孚側の行ひたるものにして呉佩孚突然の病死が日本側の陰謀にあらすして純然たる病死たることは呉佩孚の家族及部下の確認する所にして日本側以外の陰謀にもあらざることを確認せらる又呉佩孚の病気経過に関しては概ね既報発表の通りなるも急死の原因概ね左の如し(以下「一」から「三」は省略)


〈3点目〉
親展
昭和14、12、7
秘電報
次官・次長宛
甲集団参謀長


一、呉佩孚の死亡に関しては「呉」自身は元より側近者も直前迄予期せざりしを以て遺言もなく且つ突然死亡を発表することとなり、重慶方面より多少の「デマ」あるは覚悟せざるべからず
ニ、当方に於ては取り敢えず側近者を呼び息子の談話の形式を以て死亡前後の事情を発表し且つ在京外人の記者に対しても説明せしが外人記者は之を了解し夫々打電せるを以て重慶方面の「デマ」も大したる効果なきに至るへし
三、「呉」を診断せし独逸医師も熱心に真相を説明し外人方面には好影響を与へ居れり(終)


・・・・・

上の写真。呉佩孚が暮らしていたことがある
と言われる保安寺街の旧宅。その前には立派
な大木が立っていました。周辺の家屋が取
り壊されていることが分かります。撮影当日
は工事関係者の方たちが昼食中でした。


結びにかえて・・・ブレず曲げずの呉佩孚


上に掲げた〈2点目〉の中に「当方目下の工作として呉の反省を促す為冷淡なる態度を執りつつある矢先」とあるのを見ると、呉佩孚はその最後まで日本側工作者たちの思い通りにならなかったことが分かります。ブレず曲げず日本軍に翻弄されなかった呉佩孚は反対に日本軍を翻弄していたと言ってもよいかもしれません。


場所は日本占領下の北京、“膨張膨張”と勢いづいた日本人及びその関係者たちが闊歩していた時代でした。そんな時代の中にあって、呉佩孚は抗戦の蒋介石側とも、和平派に身をおきながらも汪精衛側の人物たちともちがう独自の立ち位置を堅持し続けました。いわば敵陣の真っ只中で暮らしていたと言ってもよいわけですが、そんな状況の中で日本人に向かって「日本には日本の立場があり支那には支那の立場かある」と言い切った呉佩孚。日中両国が敵対関係にあった時代、その立場にかかわりなく両国民から敬慕のまなざしで見られていたと言われる呉佩孚てすが、今回呉佩孚について調べている中でその魅力の一端に触れることができたような気がしています。コロナ騒動がもう少し静かになったら東城区の什錦花園の呉佩孚邸を訪れてみたい。


主な参考資料
アジア歴史資料センター公開資料(番号はレファレンスコード)
〇『対支謀略二関スル第二部長口演要旨』(B02031728400)(25/39)
〇『「汪」「呉」工作指導腹案』(B02031727500)(24/26)
〇『「汪」工作指導要領案』(B02031728300)(13/28)
〇『岡野呉佩孚会見記』(B02031730000)(7/35~10/35)
〇『呉佩孚大迫少将会見記録』同上。(11/35~13./35)
〇『呉岡対談』同上。(13/35~16/35)
〇『呉氏、汪氏ノ運動ヲ評ス』(B02031730400)(20/31)
〇【蒋介石側の通信社などによるもの】(B02031732900)
〇【呉工作にかかわった日本側の言説】
〈1点目〉(C04121693900)(1/12~2/12)
〈2点目〉同上。(5/12~9/12)
〈3点目〉同上。(10/12~12/12)

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