北京·胡同窯変

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第259回 胡同回憶・保安寺街(前)

今から8年ほど前の2014年の10月中旬、地元の胡同に暮らしている中国の知人からたまたまこんな情報がありました。
 「保安寺街、今も取り壊し中だけど、呉佩孚(ごはいふ)が暮らしていた旧居は壊されずに残っているんじゃないかな。」


保安寺街に呉佩孚が暮らしていた?  
呉佩孚とは北洋軍閥の一人ですが、彼が暮らしていたのは東城区の什錦花園だったのではないの? そう思い込んでいた私にはそんなことはまったく頭に浮かびませんでした。


胡同関係の本を調べてみると、たしかに呉佩孚の旧宅が保安寺街にありました。しかもその記事には写真まで載っているではありませんか。「迂闊だった、もう手遅れかも」と思いながら駄目モトだと行ってみることに。2014年の10月下旬のことでした。


保安寺街(Baoansijie/バオアンスージエ)は、
明の時代に保安寺、次の清の時代に保安寺街と称され、それが現代まで続いていました。その名称は「保安寺」という仏教寺院があったことに由来していることは断るまでもありません。


当日は米市胡同と同じく地下鉄4号線「菜市口駅」から目隠し壁に沿って南方向に歩き、出入り口らしき所から足を踏み入れました。



こちらがその出入り口。


中に入り急いで足を運びました。


下の写真の向かって左が米市胡同沿いの保安寺街の西口です。当日はこちらから歩き始めました。


2年前(2012年)米市胡同におじゃました時とは違い、取り壊された家屋の周囲には目隠し壁が設けられていて、その目隠し壁から逞しく伸びた雑草が顔を出している景色には凄みがありましたね。


下の地図の緑色の部分が保安寺街。その左端が起点です。

地図は『北平市最新詳細全図』(中華民国19年10月印製、北平文雅社発行)複製版。
胡同関係の本によるとその距離220メートルほどとあったのですが、確かに短い。


先にこの胡同名の由来が「保安寺」という寺院であることに触れましたが、上の地図の青線部がそのお寺です。この胡同の西端近くにあったことがわかります。


保安寺は、明の正統年間(1436年~1449年)に創建、嘉靖時(1522年~1566年)に修復されたもようですが、民国期に出火があり、一部を残すのみとなってしまい、どうやら宗教施設としての役割はあまり果たしていなかったようです。その後1958年「大躍進」時期には工場として使用、その後は一般民居に。おじゃました当日にはその姿かたちはありませんでした。


今、仏教寺院に触れましたが、この胡同には道教寺院もありました。上の地図のオレンジ色の部分がそれで、名前は「玉皇廟」。地図で見ると、この道教寺院がこの胡同の東端近くにあったことが判明します。


玉皇廟は、明の崇禎2年(1629)に創建。清の順治18年(1661)に重修とのこと。


いつ頃からか、中国では儒教や仏教や道教の古い寺院の保存保護に力を入れるようになったのですが、保安寺や玉皇廟が再開発後どのような待遇を受けているのか気になるところ。今後機会を見つけて調べてみたいと思っています。



下の写真。残された家屋ですが門牌(住所表示板)はありません。
しかし、写真向かって右側のお宅の玄関上をご覧ください。正月飾りが貼られていて、その飾りがまだそう傷んではいない。しかもそこに描かれているのはどうやら「うま」の絵のようです。だとすると、これは当然「午年」に貼られたことがわかります。おじゃました2014年はちょうど「午年」なので、ひょっとしてこの時まだ住民の方は暮らしておられたのかもしれません。また、玄関脇にネコあるいはイヌ用(?)の水入れと餌入れかと思われる器が置かれているのも見逃すわけにはいきません。玄関が少し開けられているのはネコあるいはワンコの出入りのためと考えてもよいかと思われます。


下の写真。「宋寓」と紙に書かれています。門牌はないのですが、住所が参拾肆(さんじゅうし)と繁体字で書かれていたのが印象的でした。「宋寓」ということは、こちらは大雑院(集合住宅)ではなく、個人宅であったようです。


先に仏教や道教の寺院があったことに触れましたが、この胡同には多くの会館があったそうです。


ちなみに中華民国23年4版『最新北平全市詳図』という地図の欄外には各省の会館が記載されていて、それを見ると当時次のような会館があったことがわかります。


湖南・・・湘潭会館
陕西・・・関中会館
江西・・・豊城会館、奉新中館(※)、清江会館
広東・・・三水会館
※同地図を見ると、保安寺街の近くには江西省奉新の会館が他にもあったことがわかります。たとえば保安寺街の東隣の驢駒胡同には「奉新南館」、北側の羊肉胡同には「奉新北館」がありました。ちなみに崇文門近くの東河沿(現在は東後河沿)には「奉新会館」。


下の地図の、オレンジ色の部分が「驢駒胡同」、緑色が「羊肉胡同」。
驢駒胡同は1965年に「果子巷」に編入されています。


220メートル程の距離の短いこの胡同に当時六つも会館があったわけで、この一事を見ても南城(外城)に会館が多かったとよくいわれるのも今回心底納得しました。また、往時この胡同が人の往来で賑わったのではと想像されます。


では、その昔いったいどのよう人たちが暮らしていたのか。胡同関係の本によれば、たとえば次の4人の名が挙げられていました。中国では著名な方ばかり、日本では知られていない方もおられるかと思いますが、あえて次に書き出してみました。


〇 詩人の王漁洋(おう ぎょよう/ワン ユィヤン・1634~1711/明崇禎7年~清康煕50年)
〇 書法家、金石学者の翁方鋼(おう ほうこう/ウォン ファンガン・1733~1818/清雍正11年~嘉慶23年)
〇 北洋軍閥の呉佩孚(ご はいふ/ウー ペイフー・1874~1939/清同治13年~民国28年)
〇 京劇俳優の高慶奎(こう けいけい/ガオ チンクイ・1890~1942/清光緒16年~民国31年)


詩人、書家、軍人、俳優と多様な分野で活躍した人たちがこの胡同には暮らしていたことがわかりますが、それでは肝心の北洋軍閥の呉佩孚とは、どのような人物だったのか。


北洋軍閥とは、清末、北洋大臣であった袁世凱が組織した軍隊(北洋新軍)を基盤とし、民国初期に北京政府の実権を握った軍閥たちを指す言葉ですが、彼らは袁世凱の死後、段祺瑞を中心とした安徽派、馮国璋率いる直隷派、その分派で(後に日本軍に爆殺されてしまう)張作霖を頭目とする奉天派に分裂。1928年の国民革命軍(総司令蒋介石)による北伐完了まで北京政府の実権を巡り争っていました。


呉佩孚は直隷派の実力者であったのですが、1924年10月、同じ直隷派の馮玉祥のクーデター(北京政変)で馮玉祥の国民軍と激戦の末に敗北、その後、再起をはかるべく活動するのですが、やがて北京に隠棲してしまいます。1932年のことでした。


馮玉祥のクーデターの際、馮玉祥と決戦の覚悟を決め、楊村並び廊房(坊)の南方において、馮玉祥軍と対峙していた呉佩孚は、鉄道内に司令部を置き采配を振るっていたそうですが、その呉佩孚に会うことのできた、いわゆる中国通(当時は「支那通」)と言われた人物の一人であったのではないかと思われる高木陸郎さんがその『日華交遊録』(昭和18年12月15日発行、救護会出版部)の中で、次のように語っています。※誤『支那交友録』→正『日華交友録』22年5月17日訂正


「彼は、それまで(※1)常勝将軍と云われ、直隷派随一の勇将であった。」
「呉佩孚は曹錕(※2)幕下随一の武将として、時に曹を凌ぐの隠然たる勢力を持っていた。従って直隷派によって志を伸べんとする者は、曹錕よりも寧ろ呉佩孚にお百度を踏みその歓心を得んとした位で、現に現重慶政権(※3)の要人の一人王正廷(※4)などはその代表的なものであった。しかし、曹錕は深く呉佩孚を信頼していたので、呉佩孚亦曹錕を裏切ることなく、極めて忠実に師事していたのであった。」
※1・・・馮玉祥軍に敗れるまで。※2・・・直隷派の代表的人物。
※3・・・蒋介石が率いる国民党政権。※4・・・国民政府で外交部長や駐米大使などを勤めた民国期を代表する外交の重鎮と言われる。


高木さんの記事を読むと、呉佩孚という人物が軍人として優れていたのはもちろん、またそれを離れても人々の信望が厚い好人物であったのではと想像されます。しかし、今回、彼の北京引退後のことを調べていて、そんな優れた人物であったにもかかわらず、というより、そういう人物であったからこそではないか、と思われる出来事のあったことを初めて知りました。


北京に引退後、東城の什錦花園の自宅で家族とともに暮らしていた呉佩孚ですが、1937年7月の日中戦争勃発後、日本占領下に作られた中華民国臨時政府並びに南京維新政府、関係諸団体の懇請(その背後にあった日本政府、日本軍の存在)によっていよいよ出盧かという矢先、真相のはっきりしない突然の死を迎えてしまいます。日本と中国との戦争が長期化・泥沼化の様相を呈していた1939年(昭和14年)12月のことでした。次回もう少し北京引退後の呉佩孚について触れてみたいと思います。

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