北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第287回 胡同回憶・三源胡同(その2) 改訂版 ―附・1930年代・40年代の三元庵にあった日本関係の店舗―

前回からだいぶ間隔があいてしましましたが、今回は前回の続きになっております。おつきあいいただけましたなら嬉しいです。


昔、この旅館に矢印といういたってシンプルな看板の裏側(北側)一帯に「三元庵」という
名のお寺(尼寺)のあったことは前回紹介させていただきました。



かつてあった「三元庵」という寺廟が現在の「三源胡同」という地名の由来となったわけ、ということなのですが、今回はこの看板からさらに東方向に歩みを進めてみたいと思います。


なお、以下に使用している写真は前回と同じく2018年7月2日に撮影したものであることをお断りしておきます。


上の写真は、旅館という看板のまえ辺りから東方向を写したもの。



しばらく前進すると人の楽しい笑い声が聞えてきました。


笑い声は、上の写真の赤い矢印のところから。



二階建ての建物。


住所は三源胡同7号。



空調の室外機が日本製でMITSUBISHI。
異国で「日本」に会えたのが嬉しくなって(そこが胡同ならなおさらで)思わず写真を撮ってしまいましたよ。


それはそうと、先に書いた「笑い声」の出所は、こちら。
お仕事のお仲間なんでしょうかね。楽しそうにお食事中。



お仲間のお一人「どちらからですか?」
わたし(・・・つたない中国語で)「日本から」


すると「どうぞどうぞ」とビールを勧められる。


決して嫌いではない人間としては、お言葉に甘えていたらここにいすわってしまい、先へ進めなくなってしまうことはわかりきっているので、今回は丁重にパス。


お食事中ご無礼いたしました。




「冷えたビール、いいなぁ」と呟きながら歩いていると、若いお二人が私のわきを通り過ぎていきました。


これから友達たちと待ち合わせなのかな・・・。


まぶしい青春!!



かつて私にもあったけれど、あれはいったいどこへ置き忘れてきたのかな。



遠ざかる青春のうしろ姿を見送りながら(手は振りませんでしたが)シャッターをきりました。


慶興賓館。


三源胡同4号。


上の「慶興賓館」の斜め前には遠くからでもわかる大きな看板。
京哈招待所。

「京哈」の「京」は北京(ベイジン)、「哈(ハー)」は黒竜江省「哈尔滨(ハーアルビン)」。日本語では「ハルピン」。


招待所とは?
辞書で確認してみました。


「(役所・企業・団体などが所属人員・来客のために宿泊・会議用に設けた)宿泊所、保養所。(現在は一般の旅客にも開放しているものが多い。)」
白水社『中国語辞典』より。


こちらは黒竜江省「哈尔滨(ハーアルビン)市」に関係のある宿泊施設ですが、一般にも開放しているようです。



さて、上の看板をくぐってほんの少し進むと、右手に路地。



なんと!  この路地の入り口にも大きな「京哈招待所」の看板がありました。

この路地は「治国胡同」という胡同とつながっていて、向こう側からでもこの招待所の
所在がわかるようになっています。この路地を入って進むと「京哈招待所」があるというわけではありません。ただし、道草、だーいすき!!というお人はぜひこの路地にお入りください。



さらに東方向に進みます。




この胡同の東端が見えてきました。
ちなみに手前に見えるのは、シェア自転車。


こちらが東端。



胡同を歩いていて、けっして珍しい風景ではないのですが、玄関の上に「鏡」があるのが興味深い。



この「鏡」は魔除け用のもの、と思われます。


「幸運や財産や長寿など、多岐にわたる恵まれた生活を得るためには、単に祈願するだけでは十分ではなく、伝統的に魔除けの必要性が考えられていた。こうしたことは建物を建てる段階で行なわれ、また後に必要に応じて追加された。」(強調は、引用者)


『中国の住まい』(ロナルド・ゲーリー・ナップ著、西村幸夫監修、菅野博貢訳、学芸出版社)は、続けて次のように記しています。


「住まいの敷地形態や隣地からおこる邪悪な力を封じるために、ときにと「八卦(バーグア)」のシンボルが魔除けとして加えられる。(中略) こうした方法は、とくにドアが路地を介してたがいに面している場合や、路地が直接玄関に導かれている場合などの「たがいに敵対する」と考えられる関係の場合に用いられる。「陽」を放っている小さな鏡は邪悪なものの進路をそらすものとして、入口の上部に掛けてあるのを多くの住まいでみかける。」


このお宅には魔除けの工夫がもうひとつ。


玄関脇になにげなく置かれた造花の「赤い花」。


たとえば、ウェブ版『世界宗教用語大事典』(中経出版)の「あか【赤】」を見ると次のような説明がありました。(強調は、引用者)


「漢字の「赤」は大と火の会意文字で、大きく燃える火であり、また、その色でもある。それで赤色は太陽や血に連想され、宗教的な意味で用いられることがある。中国の四神の南方神は朱雀(朱色の鳥)だが、南方は太陽(天の火)の方角だからだ。西洋で神の顔や眼が赤とされ、仏教でも阿弥陀仏の身色を赤とすることがあるのは、太陽との関連が考えられる。火はすべてを焼き尽くすので威猛除障の色とされ、一般でも魔除の色として用いる。さらに同じ理由で悪魔の色ともなる。血の色からは不吉や災害が連想される。→ 四神」



さらにもう一つ挙げてもよいかもしれません、それは窓のところに見られる「ニンニク」。
ある種の植物(たとえば匂い、香りの強い植物)がやはり魔除け用に使われるのはよく知られているのではないでしょうか。




さて、この三源胡同の東端はこちらのお宅ですが、この胡同の終点までにはもう少し歩きます。


東端のお宅の前を右折。



路地をほんの少し進みます。



こちらは三源胡同1号。



「ああ、1号院だ、ここが終点かな」と思ってはいけません。


1号院の前を通り過ぎて・・・突き当りを右折。


右折すると右手に玄関。


こちらの住所は三源胡同2号院。



2号院のある上の写真の突き当りが、三源胡同の終点です。



・・・・・


続けて1930年代・40年代の三元庵にあった日本関係の店舗名、企業名をつぎに紹介させていただきました。


これらの店舗や企業名、住所番号などは、今回調べていて不明な点(例えば番号が重複している)などもあったのですが、とりあえず現在わたしの眼に入ったものを書き出したもので、ひょっとして取りこぼしてしまったものもあるやもしれず、今後さらに調べてみたいと思っています。


なお、詳細は省略しますが、住所に「東城」とあるのは当時の「東城区」、「八宝胡同」とあるのは現在の「南八宝胡同」を指しており、「崇内」とあるのは「崇文門内」の略であることをお断りしておきます。


店舗や企業などの代表者名は省略しました。


番号がばらばらであることをご容赦ねがいます。もちろん住所番号が現在のものと違っていますのでご注意ください。


隆華洋行(雑貨類)
・・・北平八宝胡同三元庵 ※番号不詳


三志洋行(骨董類)
・・・北平八宝胡同三元庵 ※番号不詳


兄弟洋行
(義山飯店・高麗物産、
白米委託販売並二雑貨貿易業、
満蒙日報北平支局事務一式)
・・・北平東城崇文門内三元庵1号


義達洋行
(美術雑貨、絵葉書、ブロマイド)
・・・北平崇文門内八宝胡同三元庵18号


明月楼(料理)・・・八宝胡同三元庵1号、南院


第一館(料理)・・・八宝胡同三元庵29号


北京楼(料理※)・・・八宝胡同三元庵1号


寺田大薬房北京出張所(薬品)・・・崇内三元庵32号


東亜商会
(石鹸、製造、販売)・・・東城三元庵26号(後門)


日満土木会社
(土木建築請負業)・・・東城三元庵32号


春山洋服店
(紳士服、婦人服)・・・崇内三元庵10号


北京日本旅館組合・・・崇内八宝胡同三元庵7号


三村商事
(煉瓦、石材、内外木材)
・・・北京蘇州胡同三元庵8号
 ※蘇州胡同の一部分は路地を介して三元庵とつながっており、
そのためこのような住所表示になったかと思われます。


神山洋行
(木材、家具、木製品)
・・・北京東城三元庵5号


※上掲「明月楼、第一館、北京楼」の業種が「料理」となっていますが、この場合の「料理」とは単なる飲食店のことではなく、いわゆる「三業」すなわち大人の遊び場所、料理屋、待合茶屋、芸者屋の一つを指しています。


なお、『北京案内記』(新民印書館、昭和16年(1941年)11月20日発行。ここでは昭和17年3月1日8版を使用)には当時北京にあった「日本料理店」に関して次のような記述が載っていましたので、参考に書き出してみました。


「現在、北京には約四十軒の日本料理店あり、芸妓三百九十三名、半玉三十一名、仲居百三十名、其他十五名。東京のやうに待合、芸者屋、料理屋と分れて居らず、芸者は何れも料理屋の内芸者である。従って検番はない。」


引用中の「半玉」とは、一人前ではない若い芸者。玉代(芸者を呼んで遊ぶ料金)が半分であることから。「仲居」とはこの場合、当時「酌婦」と呼ばれた“ひそかに性売する女性”を指しているようです。


ちなみに『買春する帝国』(吉見義明著、2019年10月25日第4刷発行、岩波書店)によると、「北京(北平)では、一九三四年末には芸妓が一九人、酌婦が三四人(日五人・朝二九人)しかいなかった」とのこと。その数が増えたのは1937年以降の「全面戦争開始後」※のことであったそうです。※「前面戦争開始後」の「前面」は「全面」の誤記でした。大変失礼いたしました。2023年2月8日訂正。


以上。

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