北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第288回 北京・紅燈幻影 《王皮胡同》その1 ―胡同で后稷に出遭った。―

王皮胡同(Wangpi Hutong/ワンピーフートン)


当日は糧食店街沿いの東出入り口からスタート。
2023年1月31日のことでした。




下の地図の赤い矢印がスタート地点。

ゴールは、煤市街沿いの西出入り口。



ちなみに王皮胡同の北側にある繁華街、大柵欄の様子は下の写真の如し。


大柵欄街の西口

大柵欄は、辞書的には「dazhalan/ダーヂャーラン」、北京の口音・俗音(北京訛り)では「dashilar/ダーシーラル」。


観光客でいっぱいの大柵欄。

当日は王皮胡同を歩いた後、この大柵欄に立ち寄ってお茶。その後帰宅。
その時の写真は回を改めて紹介させていただきます。



【王皮胡同の名称などについて】
明の張爵(1485~1566)の『京師五城坊巷胡同集』を見ると「王皮胡同」。
次の清の時代、朱一新(1846~1894)の『京師坊巷志稿』を見るとやはり「王皮胡同」で、
次の中華民国から現在まで「王皮胡同」と続いています。


明の時代、王さんという皮職人が暮らしていたことが地名の由来なのだそうです。
王という職人さんはおそらく皆に信頼され愛されていたのではないでしょうか。


なお、新中国成立以前、この胡同は三等妓院(下処)の多い場所の一つとして有名だったようで、たとえば麦倩曽『北平娼妓調査』(《社会学界》第5巻、1931年6月)によると、民国18年(1929年)の統計で、この胡同には「茶室」と呼ばれた二等妓院が一軒、「下処」と呼ばれた三等妓院が十軒あったことが分ります。


残念ながらそれぞれの妓院の名称については不明なのですが、上の調査から25年ほど遡った明治37年(1904年·光緒30年)6月出版の『言文対照・北京紀聞』(岡本正文編訳、文求堂書店)という本を見ると「馬という人が王皮胡同の春喜班で泰長庚なる人物に斬り殺され」、犯人逮捕のため役所から懸賞金が出されたという記事が載っており、かつてこの胡同に「春喜班」という妓院のあったことが判ります。(※)


(※)この『北京紀聞』の「例言」を読むと、この記事が当時発行されていた新聞記事に基づいていることがわかります。


例言の一部は次の通り。「本書の稿本はかつて清国北京に留学の際、語学研鑽の傍、日毎に北清に於て発刊せる漢字新聞数種を閲し其中に就き該地の風俗習慣及び官衙商賈の状態等を洞察するに足るべき記事を摘録し・・・」。


ただし、記事中の「春喜班」という妓院の等級については不明。「班」とあるので「清吟小班」すなわち「一等妓院」だった可能性なきにしもあらず、といったところでしょうか。



新しい門墩(メンドン)の置かれた家がありました。


王皮胡同8号院




西へ少し進むと二層の建物。



洒落た窓枠の左手の建物に注目です。


この二階建ての建物は王皮胡同10号院。



この10号院は、現在一般民居として使われていますが、かつては妓院だったといわれ、その後旅館になっていたことがあるそうです。(肖复興『八大胡同捌章』2007年6月、作家出版社)



先に春喜班という妓楼は一等妓院すなわち「清吟小班」だったのかもしれない、そんなことを書きました。


「清吟小班」(一等妓院)とは、どのようなところであったのか。ここでこの「清吟小班」について少し触れておきました。


もちろん私はこの「清吟小班」なる場所におじゃましたことはありません。そこで今回は私自身の勉強のために今から100年ほど前の大正12年(1923年)12月30日に出版された、中野江漢という人が著した『支那の賣笑』という本を覗いてみたいと思います。


中国の公娼には、清吟小班(一等妓院)、茶室(二等妓院)、下処(三等妓院)、小下処(四等妓院)と四つの妓院があったそうですが、清吟小班は一等級。


“「清吟小班」は日本の「芸者屋」([芸妓屋」)と解釈するのが至当である。実際は芸妓の置屋と待合を兼ねて居る。”


清吟小班の妓女は、日本の芸者だという。芸者とは本来歌や踊り、音曲なとの芸を身につけていて、料亭や待合茶屋などの酒宴で客をもてなす女性のこと(もちろん時にそれ以外の大人の遊びを客に提供していたことはいうまでもありません)。清吟小班の妓女も楽器を演奏したり歌を唄い、そこに足を運ぶ客たちは飲食とともに妓女たちの演奏や歌を楽しむのを主目的としていたと考えてよいかもしれません。


妓楼の外観について記せば、妓楼の門の左右に「清吟小班」と刻した、横三四寸長さ七八寸の真鋳の表札が懸けてあったそうです。また表札には必ず清吟小班の上方に「江蘇」とか「京兆」とか「津門」とかいう文字(これは妓女の出身地。南方系か北方系かが分る)が刻してあり、お客に等級や妓女の出身地がすぐに分るように工夫がなされていたことが分かります。


さらに妓楼では、お客たちの眼を引くための工夫として、前述の表札のみならず門の左右の壁、または門上に真鋳または木板、あるいは木枠をつけた紙片に妓名すなわち源氏名を書いた札が懸けられていたそうです。


一等妓院「清吟小班」の入口の様子その一例(中野江漢『支那の賣笑』より)

たとえば向って右に天津出身の妓女名が書かれた札が懸けられ、他にも妓女名の書かれた札が見える。


清吟小班についてはこのくらいにして、次に二等妓院の「茶室」や三等妓院の「下処」についてみると、中野江漢『支那の賣笑』は次のように書いています。


“「清吟小班」を日本の「芸妓屋」とすれば、「茶室」及「下処」は「女郎屋」である。(中略)小班の妓女は歌を唄うことが主たる目的となって居る。これに反し「茶室」の妓女は純然たる娼妓で賣淫が主となって居る。「下処」に至っては茶室の下等なもので、之を日本でいえば吉原の河岸か、洲崎のケコロあたりのチョンチョン格子の女郎格であるといってよい。”


吉原や洲崎は昔遊郭のあった場所として有名ですが、「吉原の河岸」とか「洲崎のケコロ」や「チョンチョン格子」とは、なんでしょうか。『ざんねんな日本人図鑑』あるいは『ざんねんな人間図鑑』にその具体例として載らないように私なりに調べてみました。


詳しいことは省略し、今回知りえた範囲内で言えば、「吉原の河岸」は公娼に対する私娼やその私娼のいた場所を指しているようです。次の「ケコロ」は「蹴転ばし」の義で、私娼の異名。「洲崎のケコロあたりの」で「洲崎にいる私娼のようなもので」くらいの意味、「チョンチョン格子」とはその方面の三流級の店の意味なのだそうです。当時の日本の野郎どもは上の中野さんの記事を読んで「下処」なる場所がいかなる所であるのか、すぐにぴんと来たんでしょうね、きっと。


なお、同書によると「茶室」「下処」の門口にも“班子(清吟小班、引用者)同様の型にて「何々二等茶室」の表札を掲げて居る”ので等級の違いについては困らなかった模様です。


四等妓院「小下処」については「下処」についての記事から推して知るべしといった感じで、ここでは省略させていただきました。


10号院の玄関わきに置かれていたオモチャ。


上の建物の斜め前は王皮胡同3号院。






その西隣は王皮胡同5号院。




眼を西方向に戻すと味わいのある電動三輪車が眼に飛び込んできました。




いい顔してます。


うしろ姿もなかなか。




こちらは王皮胡同12号院。


牡丹の絵。

牡丹の花ことば
王者の風格、富貴、恥じらい、高貴、壮麗。



ツバメの巣のあるところなんか、奥が深い。



こちらは王皮胡同14号院。


こちらは12号院のものとは違い、スケールの大きな自然。

こういう絵を眺めていると中国の人たちにとって「自然」とは何か。中国人の「自然観」とはどのようなものか。そんな宇宙的規模の壮大な問いが心の底から湧いてきます。


こちらは王皮胡同7号院


入口で出会った住民の方と共に中へ。



ツル性植物のための仕掛け。



頭の上にも。
季節が来ると緑の木陰の出来上がり。


北京の夏はけっこう暑い。でも、木陰に入るとひんやり。生活の知恵の一つとして生まれた工夫かもしれませんね。



豪華な装飾が施された軒下。


さらに東へ。



再び二層の建物。



角度を変えて。



こちらは王皮胡同18号院。



「ここはかつて妓院だったのではないか」。そんな思いもあったのですが、ここでは玄関の上に刻まれた三文字に触れてみたいと思います。


門の上に刻まれた三文字。


貽来牟。
中国語で「イーライモウ」、日本語で「いらいぼう」。


漢和辞典を見ると「貽」は「贈る」「遺す」、「来牟」は「麦」。細かく書くと「来」は小麦で「牟」は大麦。


今回、この三文字について調べている中で、ありがたいことに収穫が二点もありました。この刻まれた三文字がこの建物といかなる関係にあったかどうかはさておき、その二点を次に書きだしてみました。


その二点を書くにあたって中国人ブロガーの中にもこの三文字に関連した記事を書いておられる方がいて当記事内容と重なる部分もあるのですが大変参考になりました。ブログ名並びにハンドルネーム名は不明ながら次の2010年10月に書かれた記事を深い感謝を込めて次に挙げておきました。


さて、収穫となった二点は以下の通りです。


まず、たとえば大正8年(1919、民国8)3月25日に発行された『支那の工業と原料 第一巻 下巻』(安原美佐雄編、上海日本人実業協会)などを見ると「営業・機械製粉、精米、製材業」として「貽来牟(麦、広く穀物を贈る)」という三文字を使用した「貽来牟和記麺粉股分有限公司」なる会社名が載っていたこと。


所在地は北京西便門内北綫閣(※)。支店もあり、住所は北京西四牌楼南缸瓦市。
設立は清末の宣統2年7月で「民国3年5月28日登記」とある。ちなみに宣統2年とは、明治43年、西暦で1910年ですから、この会社が今から110年ほど前に設立されたことが分ります。


なお、この会社、時代が下って昭和13年9月20日に発行された『満支鮮商工名鑑 昭和13年版』(日満工業新聞社編)によると、社名が「貽来牟和記」と記載され、営業内容として「機械器具金属(鐵工業)」となっていました。所在地は「北京、南大道一」(※)。


上記、製粉会社の「貽来牟和記麺粉股分有限公司」と鐵工業を営業内容とする「貽来牟和記」二社の関係がいかなるものであったのかという点については省略です。


※「北綫閣」は現在の「北線閣街」で、「南大道」は「西便門内大街」を指しています。
下の地図をご覧ください。この地図は『1950・北京市街道詳図』(1950年1月初版、大中国図書局発行)の一部をお借りしたもの。

青線円内の通りが「南大道」、赤線円内が「北綫閣」。


収穫のもう一つは、この三文字について調べていて中国最古の詩集、周の祭祀の歌や民謡を儒家が編纂したものといわれる『詩経』に遭遇し、そのお陰で「貽来牟」という三文字の深い意味にほんの少しでも触れることができたことでした。



上の白文は『五教白文 詩経下』(神彦三郎、明治12年11月10日)よりお借りしたもの。赤線部に「貽我来牟」とあるのに注目です。


「貽我来牟、帝命率育」の解釈の一例(※やや詳しい説明は後述)を示すと次の通りです。
「后稷(こうしょく)、我が民に来牟(らいぼう)を貽(おく)りあたえられたるは、すなわち上帝(天帝)が后稷に命じて来牟(麦、広く五穀)を養殖し諸民を生育せしむ、(これまた后稷の徳、よく天の意にかなえる所なり)。」


「貽我来牟」を含むこの「思文一章八句」の詩は、后稷(こうしょく)という人物とその業績をたたえるものですが、后稷は、周の始祖とされる伝説上の人物。天下に飢え苦しむ民がなくなるよう、その身を挺して休むことなく民に農業を教え広め、五穀繁殖に尽力したといわれ、農業の神とされています。


「貽来牟」の三文字には「天」や「后稷」が人々にもたらした五穀豊穣への、それと共に五穀豊穣をもたらした「天」や「后稷」への人々の感謝の気持ちや畏敬の念が込められているのではないか。この詩の意味することをまるごと消化できる胃袋を持ち合わせていない私ですが、あえてこのように捉えてみました。


※詩句の意味や書き下しの一例は次の通り。


この詩は、周国の伝説上の始祖・后稷(こうしょく)を祭るときの樂歌(がくか)。
〇「思文后稷、克配彼天」
「それ文なる后稷(こうしょく)、克(よ)く彼(か)の天に配せり、」
これ后稷の文徳は盛んにして天に配して祭るに足れり。


〇「立我烝民、莫匪爾極」
「我が烝民(じょうみん)を立(りゅう)せしむ、爾(そ)の極(いた)れるに匪(あら)ざる莫(な)し」
「烝民」は万民、人民。「立」をここでは「粒」、米穀のことと解釈した。「后稷は我が諸民に農耕を教えて、わが諸民に粒食することを得せしむること、その徳の至極にあらずということなし。


〇「貽我来牟、帝命率育」
「我に来牟(らいぼう)を貽(おく)る、帝(てい)命(めい)じて率育せしむ」
「来牟」は麦、ここではひろく穀物全体のことでもよい。「貽」は贈る。后稷、我が民に来牟を貽(おく)りあたえたのは、すなわち上帝(天帝)が后稷に命じて来牟を養殖し諸民を生育せしむ、(これまた后稷の徳、よく天の意にかなえる所なり)。


〇「無此彊爾界、陳常于時夏」
「此(こ)の彊(かぎり)その界(さかい)なく、常(じょう)をこの夏(か)に陳(つら)ぬ」
后稷は遠近此彼の境界を設けず、天下万民が豊かに暮らしていけるように万民に農業を教え広めたのである。
※説明にあたり『経書大講・第八巻、詩経下』(小林一郎、昭和14年1月19日)、『漢籍国字解全書・第五巻』(早稲田大学編輯部編、昭和2年8月4日)などを参考にしています。


昔、多くの三等妓院があったといわれる王皮胡同での徳の溢れた農業の神・后稷(こうしょく)との出遭い。それは中国人における「自然観」の一端を垣間見る営みでもあったことは言うまでもありません。


しかし、それと同時にある問いが脳裏をよぎる。もし仮に王皮胡同18号がかつて妓楼であったとしたならば、その建物に刻まれた「貽来牟」の三文字にはどのような意味が込められているのだろうかという問いが。


「王皮胡同」の記事は次回に続きます。

×

非ログインユーザーとして返信する