北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第291回 北京・紅燈幻影 《王皮胡同》その4 ―再び、南班と北班、それぞれの妓女たち― 附・ちょいと大柵欄

「我看着  你呢 !」
あなたを見てるよー!


女の子のイラストを見つけた。


場面によって色々な意味をになうフレーズですが、女の子のイラストが貼られていたのは、こちら、王皮胡同39号院。

店舗のようですが、当日はシャッターが下りていました。


わたしも思わずつたない中国語で「我也看着 你呢 !(わたしも見てるよー)」と応えてしまった。


王皮胡同42号院。

横批・・・福運高照
上聯・・・内外平安好運来
下聯・・・合家歓楽迎富貴


玄関の下には、
「厳禁寵物、在此大小便」。
ペットにここでウンチやオシッコをさせないでね。


「ペットを飼うのは贅沢な営みだ」。
そう言われていた時代が中国にはありました。しかし、今や北京の街で猫や犬やアヒルやウサギなどの姿を見かけないときはありません。時代は大きく動いているのです。「厳禁寵物、在此大小便」というささやかな貼り紙はそんな時代の変化のひとコマを物語っているようです。


二枚の門牌が貼られていました。王皮胡同46号と48号。



前方を横切っているのは西出入り口の煤市街。



西出入り口が近づいてきたところで、再び、南北それぞれの妓女について触れておきたいと思います。


再び、南班と北班、それぞれの妓女たち
前回、南班と北班の妓女について少し触れました。今回も引き続きもう少し南班と北班の妓女の世界、とりわけ南妓と北妓の違いについて、かつて出版された北京関係の数冊の書籍を通して垣間見たいと思います。


《美的対象としての妓女・・・南妓の勝利か?》
「南姫は穏かな自然環境に生育し、玉のようなキメの細かな肌膚とすんなりと均斉のとれた美しい四肢とを持っている」。
こう書くのは昭和16年11月20日発行『北京案内記』(新民印書館)ですが、対して北妓の評価はいたって低い。
「北姫は激しい北方的な気候と風塵とに痛めつけられて皮膚の色が劣りキメが粗い。」


そして『北京案内記』は、こう結論づけています。
「美的鑑賞の対象としては北姫は南姫の敵ではない。」


上の言説と同傾向の趣を持つものを参考として次に二点掲げてみました。
「何と云っても今日では美人と云うと、蘇州でなくては幅がきかぬ。又事実蘇州は美人が多い。容貌は丸ぽちゃと云うよりは瓜実顔の方である。これが江南地方によく響いている。例の杭州であろうがまた南京であろうが美人は蘇州産でなければ夜も日もあけぬと云ったものが多い。北京の前門外あたりで風流なところに行って見ると南班北班とあるが共に蘇州生まれを以て誇りとしている。」
こう書くのは、後藤朝太郎著『支那の土豪』昭和15年2月28日、高山書店)。


美人は蘇州出身者で決まり!! といった感じですが、法学専門家として著名な滝川政次郎さんもその『法史零篇』(五星書林、康徳拾年9月25日、※)の中で次のように書いています。


「蘇州は南方美人の淵叢であって、蘇州生れでない妓女は、所謂場違い物の一種である。故に南班のことを一に蘇班とも称するのである。」※「康徳」とはかつて中国東北部に存在した「満洲国」の元号で、「康徳拾年」とは西暦1943年、昭和18年。当時著者は「満洲国」在住でした。


《客対応はどうなの・・・「北妓」の評価がぐーんとあがる?》
「南幇(南班のこと。引用者)は服装や風采を見て客に等級をつけて差別待遇をやり、軽薄、狡猾であるが応待がテキパキとして溌溂たる感じを与える。」(『北京案内記』より)


「北幇は茶壷に至るまで客の待遇に差別を設けず、北方的な重厚さがあり、床扱いが極めて親切で床を以て第一と心得ている。」(同上)


《室内装飾について》
「室内の設備、模様は今は大した相違はない」と『北京案内記』。しかし、昔は違っていたようで、同書の筆者によると「以前は北幇は調度その他に頗る凝った装飾を施し、どこまでも濃艶であり、ひたすら魚水交歓の風流を享楽するのがその伝統であった」そうです。


室内装飾について次のような記事を眼にして興味深く思われたので、ほんの一例ですが参考に挙げておきました。出典は永持徳一著『友邦支那 民情・習俗より観たる』(明善社、昭和13年)です。


「その妓が接客する室内の装飾でさへ、互に趣を異にし、南妓の室は風景、人物なぞの額類を壁間に掲げてあるのが普通であるが、北妓の方は、これも、前段既に述べた文字の国の妓女らしく、室内装飾として、双聯を掲げてある。
例えば、
凌渓有仙乗風下
波心明月破雲來
(※返り点などは省略。引用者)
の如きで、第一句劈頭の「凌」と第二句の「波」で「凌波」となり、これが此の室の主なる妓女の名であることが分明になるようにしてある。」


《食べ物でスリリングな「楽死」はいかが?》
上掲の北京案内記で恐ろしい記事を見つけました。「こういう恐ろしさはゾクゾクしてことのほか好きだなぁ」という方はお読みください。


「北幇で薦める食物には亢奮する物が多く、盛んに春薬を用いるので客は知らず識らずに度を過ごして全く起つ能はざる状態に陥り、不慮の死に逢うことがあるとのことである、これを楽死と云う。」


さてさて、社会勉強になった先人諸兄の熱のこもった南班と北班についての話しはこのくらいにして、いよいよ終点。


王皮胡同52号院。

門扉に貼られた「福」の一字が、凛々しい。


天晴れな胡同牌。


写真にはおさめなかったのですが、新型コロナの影響でしょうか、それともまだ春節(旧正月)休みということなのかその辺のことは不明ですか、王皮胡同内の西出入り口近くにある数件の店舗と思しき建物のシャッターが下りていたのが印象的でした。


ここで王皮胡同に関連したことをもう二点。
一つは、この胡同にはかつて京劇の役者さんが暮らしていたことを挙げなくてはなりません。暮らしていた役者さんは次の通り。カッコ内は得意とした役柄です。


馬長礼(老生)
「老生」は名君、忠臣、賢相、烈士、学者、長老などの役。


李洪春(紅生、文武老生)
「紅生、文武老生」。
既出『北京案内記』から借りると次の通りです。
「(文武老生)これは上海で創められた新しい傾向のもの」。「老生の如く歌も演るし、武生の如く立廻りも演る」。「人物は大体に於て英雄豪傑或は剣侠といったものである」。「三国志の関羽は、顔を真赤に塗り、歌を唱へば、立ち廻りも演る。独特の役柄で、人に依てこの役を『紅生』と云ったり、或は『紅淨』と云ったりする」。


高元阜(旦)
「旦」は、女性。俳優は女形。


もう一点。
王皮胡同には昔、広東省の「仙城会館」がありました。
たとえば、清末の朱一新(1846~1894)『京師坊巷志稿』に「王皮胡同 有仙城会館」との記載があり、清末民国初年(?)製作と思われる『北京地図 MAP OF PEKING』を見ると欄外「各省会館基地」の「広東」の中に「仙城会館」とあり、その所在地として「在王皮胡同路北」と載っていました。


もう少し詳しい説明はないものかと探してみるとありました。明治41年11月30日5版、東亜同文会『支那経済全書(第二輯)』中の付録には「仙城会館」が載っており、所在地として「前門外王皮胡同車頭路北」とあるのがそれ。ただし、ここで気になったのは所在地記載中に「車頭」とあるところで、断定は控えますが、個人的にはこれは「東頭」の印刷ミスではないかと思っています。


なお、王皮胡同内設置の案内板を見ると「仙城会館」の所在地のより具体的な記述があり「王皮胡同3号」と書かれていました。


もし、この「3号」という番地を現在のものとするならば、それは次の写真の場所となりま
す。


この王皮胡同3号は糧食店街から王皮胡同に入ってすぐの北側。



煤市街沿い西出入り口から東方向を。

写っている男の子は観光客のお一人。


こちらは王皮胡同の西出入り口脇に設けられているトイレ。

子供達が休み中ということで家族連れの観光客がけっこうおられました。


王皮胡同の西出入り口脇に並ぶ店舗。
観光客がいたにもかかわらず店の鍵は閉まっていました。店主や従業員がいまだ帰省中といったところでしょうか。


王皮胡同の結びとして凛々しい「福」の一字をご覧ください。


つづけて、ちょいと大柵欄。


大柵欄街の西口。

大柵欄(だいさくらん)は、辞書的には「dazhalan/ダーヂャーラン」、北京の口音・俗音(北京訛り)では「dashilar/ダーシーラル」。


義和団事件(1900年。庚子事変/こうしじへん)以前、東西出入り口に木製の大きな柵欄(日本で木戸)があったそうで、人々は「大柵欄」と呼んだ。しかし、義和団事件の際、柵欄も商店街も被災。その後、鉄製の大きな柵欄が再建。


ちなみに、かつて「大柵欄」という地名はもう一ヶ所ありました。現在の鐘声胡同。繁華街・西単の東、電報大楼の西。改名されたのは1965年。


下の地図は『1950・北京市街道詳図』(1950年1月初版、大中国図書局発行。複製)の一部をお借りしたもの。

赤線円内がもう一つの「大柵欄」。現在は「鐘声胡同」になっています。


下の地図の赤線円内が今回おじゃましている大柵欄。

この地図は上と同じものを使用。こちらの大柵欄は、正式名「正陽門」(通称「前門」)の近くです。


日記のような、詩のような、そして小説のような、そんな不思議な魅力に富んだ作品『放浪記』の作者で、1936年に北京(当時北平)を訪れた林芙美子(1903~1951)さんが「前門街」について、こんなことを書いています。庶民派、林芙美子の面目躍如といったところでしょうか。
「西太后の住んでいたと云う、郊外の万寿山へも行ったが、私には愉しい景色ではなかった。それよりも、夕方八時頃の前門街を歩くのが好きだった。まるで鶏小舎をひっくりかえしたような賑やかさだ。」(昭和十一年十月『北京紀行』より)


芙美子さんが「鶏小舎をひっくりかえしたような賑やかさ」と表現した前門街におそらく「大柵欄」も入れて、いい。


王皮胡同を歩いた後、久しぶりに大柵欄に立ち寄って、お茶。
胡同をかりに家族がくつろぐ母屋だとするならば、大柵欄は母屋でもありお客さんを招じ入れる客間でもあり、といったところでしょうか。


義和団事件から120年ほど経った今の大柵欄は観光客でいっぱい。


「さすが大柵欄!!」、そう思いながらいよいよ人垣の中に突撃です。


この日は下の写真建物の二階へ。


清の咸豊3年(1853年)創立、布靴の老舗(老字号)・内聯陞(ないれんしょう)の二階「大内宮保」(喫茶店)へ。



「OPEN!  大内宮保(DANEI GONGBAO)」


幸いテラス席に座ることが出来ました。


注文したのはカプチーノ(卡布奇諾)とお菓子。


お菓子は抹茶味の餡入り。

コーヒーとお菓子、美味しくいただきました。ごちそうさま。でも、このお菓子、わたしには勿体なかったかな。


布靴の老舗・内聯陞(ないれんしょう)内部をほんの一部ですが、ご覧ください。


いつおじゃましても重厚で風格ある店舗。眼の保養になりました。


口と眼の保養後、再び通りへ。



北京の客間であり母屋でもある大柵欄。ここは変わらぬものと変わるものとの交差点。そんな大柵欄をあとに家路につきました。(2023年1月31日)

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