北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第297回 北京・大紗帽胡同 ―附・昔あった日本企業や中国の公寓など―

大紗帽胡同(DASHAMAO HUTNG/ダーシヤーマオフートン)



今回は、王府井大街沿いにある大紗帽胡同(DASHAMAO HUTNG/ダーシヤーマオフートン)、その北側にお付き合いいただきます。



この地図は高徳地図の一部を拝借。


当日は上の地図の赤い矢印の西出入り口から王府井大街沿いの東出入り口を目指して歩きました。(2023年6月6日)


向って右側(南側)に見える大きな建物、手前は前回も触れた「北京万豪行政公寓・MARRIOTT EXECUTIVE APARTMENTS・THE IMPERIAL MANSION=BEIJING」という、高級マンション・アパート。奥は、ショッピングモール「新燕沙金街購物広場(BEIJING MALL)」。


直前の写真の横断歩道を渡ると、次の家屋の一部が眼に飛び込んできました。

上の写真の家屋辺りから北東にかけて、現在でも古い建物が残っているようです。


上の写真の家屋の東隣に、まるで現代美術館のようなモダンな建物がありました。

お洒落な公共トイレ。


公共トイレの出入り口近くから東方向の眺め。

初夏の朝の静けさに包まれる胡同の一画にしばし佇み、眼の前にひろがる眺めを堪能。(この眺めはいつまで遺っているのか、そんな思いも頭の隅をよぎるのですが・・・。)



ここで、この胡同の名称の由来などについて簡単に見ておきたいと思います。


清の乾隆(在位1735年~95年)の時代、抓帽胡同(ZhuamaoHutong/ヂュアマオフートン)。


清の光緒(在位1875年~1908年)の時代、大紗帽胡同(Dashamao Hutong/シアオシャーマオ フートン)。


その後、民国期から現在までその名が続きます。ただし、文化大革命中に一度「人民路ニ條」になったことがありました。


名称の由来
明の時代、この場所に「紗帽」を売る施設があったことに由来するとか。この帽子、当時の官吏がかぶるものだったのかもしれません。梁啓超の『北京歴史風土叢書』に載っているそうです。


なお、「紗帽胡同」が大と小の二つに分かれている理由について、この土地に古くから暮らしている人の話として、こんな説があるそうです。


この土地には二種の官員が暮らしていて、ひとつは「大官」が暮らしていたので「大紗帽胡同」と呼ばれ、もうひとつは「小官」が暮らしていたので「小紗帽胡同」になったというもの。なんか、可笑しいような、哀しいような、そんなお話。


次の地図は、『北京胡同志』(主編段柄仁、2007年4月、北京出版社)所載のものの一部を拝借したもの。

赤矢印が「大紗帽胡同」で、その南側に「小紗帽胡同」。現在の地図の様子とはだいぶ変化しているのがわかります。出版は2007年ということですが、2008年の北京オリンピックをきっかけに、その前後から王府井大街やその付近の胡同は大きく変貌したのではないかと思われます。


再び東方向の眺め。


塀沿いを少し東へ。


門環、ドアノッカー。


こちらは大紗帽胡同3号院。



さらに東へ。


こちらは大紗帽胡同1号院。



さらに東へ。


こちらはホテル。
楽語酒店(ローユィ ジゥディエン)


ホームページによると、このホテルは2021年開業とのこと。


上のホテルのすぐ東隣。


こちらは、レストラン。
恺芮家私菜(KAIRUI JIA SI CAI/カイルイ ジア スーツァイ)

さきのホテルとこのレストランは繋がっていました。


玄関を入ると、小鳥や可愛らしい鉢植えが出迎えてくれるのが嬉しいですよね。



その隣りには、こんな涼しげな佇まい。


門墩(メンドン)が置かれたレストランの入口。


屋外でも食事ができるそうです。

この写真では分りませんが、実は物陰にお店の人が隠れています。
掃除中におじゃまして、たいへんご無礼いたしました。


なぜか修行中。



ホテルとレストランの外からの眺め。






馬路边边(マールービエンビエン)

こちらは四川省成都生まれの鍋物屋さん。わたしは食べたことはないのですが、四川料理の一種ですから辛いのはいうまでもありません。また、二階には「老边餃子」というお店がありました。



どこか懐かしい絵が描かれていました。



よく見ると少女が手に持っているのは、ひょっとしてこの飲食店の具材かも。


すぐ隣りには、牌楼。
ここは、北京王府井小吃街の南口。以前は額に「北京王府井小吃街」と書かれていて、このゲートの中にはちょっとした食べ物を提供する食べ物屋さんが店を構えていました。現在は一時お休み中といったところでしょうか。





中華老字号(老舗)「紅螺食品」北京特産
京城果脯第一家

「果脯(guofu/グオフー)」は、果物の蜜漬け、砂糖漬け。当日は開店にはまだ早い時間だったのかもしれません。


いよいよ東出入り口に到着。


王府井大街沿いの東口北側には「swatch」。



東口南側には「王府商厦」。


東出入り口から西方向を撮ってみました。


:今回は現在の大紗帽胡同のごく一部をご覧いただきました。


つづいて、日本占領下の大紗帽胡同で暮らしていた日本人に関して、今分る範囲で次に書き出してみました。かつて日本人が暮らしていた時代の北京の空気を少しでも感じるよすがとなれば幸いです。番号は当時のものですので、ご注意ください。


〇北京市内一区大紗帽胡同2号
(勤務先・役職など)・・・北京鉄路局(※1)総務処人事科長
氏名は省略、以下同じ。
出典:『蒙疆年鑑 昭和16年』(蒙彊新聞社、昭和16年3月31日発行)


〇大紗帽胡同2号-1・・・北京鉄路局総務処長
出典:『満華職員録 康徳9年・民国31年版』(満蒙資料協会編、昭和16年)


〇大紗帽胡同2号-6・・・華北交通(株)副参事局参与、工作局機械主幹
出典:『第14版 大衆人事録 外地・満支・海外編』(帝国秘密探偵社、昭和18年11月22日第14版発行)


〇大紗帽胡同4号・・・華北交通(※2)運輸部
出典:『蒙彊年鑑 昭和16年』(蒙彊新聞社、昭和16年3月31日発行)


〇大紗帽胡同4号-1・・・北京鉄路医院医長
出典:『満華職員録 康徳9年・民国31年版』(満蒙資料協会編、昭和16年)


※1と2について
華北交通株式会社(昭和14年4月17日設立)は日本の代表的国策会社「北支那開発会社」(昭和13年11月7日設立)傘下の企業で、北京鉄路局は華北交通株式会社管下の会社でした。上記社員の方たちの住居は各企業が社員のために準備した社宅だったということもありえますが、その点については今後さらに調べてみたいと思っています。


地図は日本占領後に発行されたものの一部ですが、この地図によると華北交通株式会社は、王府井大街入口西側にあったことがわかります。

『北支那開発株式会社之回顧』(昭和五十六年十月一日発行、魁樹会刊行会、非売品)を見ると、華北交通の住所は北京市東長安街17号となっています。


同上の地図を見ると、「北京鉄路局」は当時の公使館地区東交民巷西側の西交民巷にあったことがわかります。


では「北支那開発会社」はというと、旧公使館区の東交民巷にありました。

地図によると、今も残る旧「横浜正金銀行北京支店」(1910年、妻木頼黄設計)のすぐ近くで、旧荷蘭(オランダ)使館の隣にあったことが分かります。また、開発会社の右側に「興中公司」がありますが、上掲の『北支那開発株式会社之回顧』によると、開発会社の北京支社発足当時、興中公司の事務所に同居していたそうです。


東交民巷に今も残る旧「横浜正金銀行北京支店」の建物。現在は「中国法院博物館」として大切に使用されています。

撮影は2019年4月12日。


旧荷蘭(オランダ)使館。

撮影は2019年4月12日。


【華北交通アーカイブ】より
次に掲げるのは「華北交通アーカイブ」。興味のある方はぜひご覧ください。


はじめの三葉の写真は、北京にあった「華北交通本社社屋」、四枚目は「華北交通女子青年隊、先農壇に於ける運動会の行進」と書かれたもの、五枚目は華北交通婦人社員 茶の湯講習会 、場所は東城日本人小学校。


1、華北交通本社々屋 (3704-023789-0) | 華北交通アーカイブ


2、華北交通本社々屋 (3804-036368-0) | 華北交通アーカイブ


3、華北交通本社々屋 (3804-036366-0) | 華北交通アーカイブ


4、
華北交通女子青年隊、先農壇に於ける運動会の行進 (3806-041218-0) | 華北交通アーカイブ


5、
華北交通婦人社員 茶の湯講習会 東城日本人小学校 (3802-029700-0) | 華北交通アーカイブ


直前の茶の湯講習会の写真は1940年(昭和15年)5月に撮影されたもの。この「東城日本人小学校」は「帥府園」にあったものかもしれません。

昭和17年3月1日8版(初版は昭和16年11月20日発行)『北京案内記』(新民印書館)を見ると、「北京日本東城第一国民学校」とあり、住所は東城帥府園1号となっています。


東城日本人小学校関係の写真を華北交通アーカイブより3枚増補しました。(2023年6月23日)
東城日本人小学校 支那語 教師は中国婦人 (3801-027058-1) | 華北交通アーカイブ


雪の登校風景 東城第一小学校 門前の巡補が先生に敬礼して居る (3803-033931-0) | 華北交通アーカイブ


東城日本人第一小学校 (3802-031346-0) | 華北交通アーカイブ


次の写真の一枚目は「北京鉄路局」の建物、二枚目は女性社員たちによる軍事訓練の様子を撮った時代色の濃い写真です。
6、北京鉄路局 (3801-028407-0) | 華北交通アーカイブ
7、
北京鉄路局女子青年隊の軍事教練 (3806-041445-0) | 華北交通アーカイブ


【華北交通アーカイブ】に興味をお持ちの方は、次のタイトルへどうぞ。
華北交通アーカイブ:よみがえる膨大な白黒写真 - 国策鉄道会社が遺した戦時期広報用写真の研究データベース


結びの言葉にかえて、中国人経営の公寓の記事を一つ。
大紗帽胡同には、民国14年(1915年)創業の中国人経営の公寓がありました。名前は「尚賢公寓」。資料には「旅館業」となっていました。
出典:『帝国実業商工録 昭和12年版』(帝国実業興信社、昭和12年)


法本義弘著『支那覚え書き』(蛍雪書院、昭和18年1月1日発行)は「公寓」について次のような解説を施しています。
「公寓というのは、北方で発生したもので、日本で言えば下宿屋、気どって言えばアパートに相当するものである。中華公寓、北京公寓、迎賓公寓、尚賢公寓、燕京公寓、大興公寓等々、大なるは百人、二百人を収容するものから、小は十人、十五人のものまで、学校街を中心に枚挙にいとまのない夥しい数である。」(「北京留学生覚書」より)


ついでといってはなんですが、文中に登場する公寓の所在地を次に書いてみました。出典は、上掲の『帝国実業商工録 昭和12年版』(帝国実業興信社、昭和12年)。


中華公寓
東城西堂子胡同
創業:民国17年


北京公寓
東城米市大街
創業:民国7年


迎賓公寓
東城王府井大街
創業:民国18年


大興公寓
東四牌楼南大街
創業:民国11年


今回は以上です。

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