北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第281回 北京・紅燈幻影 《朱茅胡同》その1 ―龍生九子、妓院名など―

朱茅胡同(ZhumaoHutong/ジュマオフートン)


おじゃましたのは、2022年9月下旬のことてした。


当日は、大柵欄西街沿いの北出入り口からのスタート。

道路一部舗装中。
ここ数年の北京(中国)はインフラ整備に注力している感じでしょうか・・・。





名称の移り変わりについて書き出してみました。


古都北京デジタルマップで乾隆15年(1750)頃に作られた『乾隆京城全図』を見ると「猪毛胡同」(Zhumao Hutong/ジュマオフートン)。


2008年11月発行、王彬・徐秀珊主編『北京地名典』修訂版を見ると、清後期の朱一新『京師坊巷志稿』では「猪尾胡同」(ZhuweiHutong/ジュウェイフートン)。俗称「 猪毛胡同」とも呼ばれていたそうです。


民国以降に雅化し「猪毛(ジュマオ)」が「朱茅(ジュマオ)」になり、現在まで続いています。


※古都北京デジタルマップ
ディジタル・シルクロード | 古都北京デジタルマップ


関連書籍の「乾隆京城全図」にアクセスすると1750年当時の北京地図をご覧になれます。北京からの場合、デジタルマップ中のグーグル関係の作業は行なえないのですが、日本の場合は可能なので、この地図の楽しみ方が多くなることまちがいなし。


※北京の古地図『乾隆京城全図』を現在の地図と重ね合わせることができます。




奥が見えないところが肝。


それにしても絶妙なカーブを描く狭い道って、ホント、酔えるんですよ。



右手に謎の物体・・・。



牛乳瓶を入れるケースのようですが、なぜここに置かれているのか。



南へ



門聯(春聯)


(横批)平安富貴


上聯の句がありません。この場で補うため調べてみると、対となる句は「迎春迎喜迎富貴」であることが判明しました。


迎春迎喜迎富貴(上聯の句、玄関内から見て右側)
接財接福接平安(下聯の句、玄関内から見て左側)





「大吉大利」。万事うまくいく。

ちなみに、この「大吉大利」という言葉の出所は『三国演義』だそうです。



壁にこんな絵も描かれていましたよ。
池で泳ぐ小魚とそれをねらう猫の図。
お題は「池溏清趣」。「溏」は「塘」とも。


この絵の世界を「清趣」そのものと捉えるべきか、それとも「清趣」という言葉に作者なりの皮肉が込められていると捉えるべきなのか・・・。


思えば、この絵の作者自身も含めて誰もが無菌室の中や無風状態の中で生存できるわけもなく、高みの見物など出来はしないというのが現実。


一筋縄ではいかない生きものの世界を描いたこの絵には、“微苦笑”という言葉がふさわしいのかも・・・。



こちらは7号院。



この時、9月の下旬でしたが、北京にはすでに秋の気配。
7号院の屋根の上のススキの穂も微風に揺れていました。


ここで番地について触れてみました。


上の写真のお宅は朱茅胡同7号院。この胡同の西側に位置しています。胡同を歩いていると胡同の番地が「西側と北側が奇数」で、「東側と南側が偶数」であること、東あるいは北から交互に番号がつけられていることに気付きます。次の写真は朱茅胡同8号院のお宅ですが、当然、この胡同の東側に位置しています。


朱茅胡同8号院。





「清雅賢居」。清く、品良く、賢く、住む(暮らす)。そんな感じでしょうか。

「清雅賢居」。うーん、わたしには、無理かな・・・(遠い目)



門墩(メンドン)。


胡同を歩いていて、「この門墩の上にいる動物は、何かな?」
そんな疑問をお持ちになった方もおられるにちがいありません。そこでこの門墩上の動物に注目してみました。


たとえば、上の写真のもの。わたしはぱっと見て、「これは獅子だろー」なんて単純に思ったりしてしまうんですが・・・。もちろん、獅子がうずくまる門墩もあるにはあるんですが。


でも、上の写真に見られる生き物は「獅子」ではなさそうです。だって、背中の部分が渦巻き状で、獅子の背中が渦巻状というのは、おかしい。


「何だ、この渦巻状のものは?」


調べているうちに、龍には九匹の子供がいたという神話伝説「龍生九子」に辿りつきました。おそらく、この渦巻き状のものを背負っている動物は、龍の子供の一匹「椒図(jiaotu・日本語読みでショウズ)」ではないか。椒図は巻貝を自分の住処としていて、塞ぐこと(外部からの不必要なものの侵入を防ぐこと)を好むと考えられているので、椒図が玄関前の守護神として置かれているのは理にかなっているのではないでしょうか。


ただし、椒図は龍の子供なので「角(つの)」があるようなのですが、残念ながらこの門墩上の動物の頭に「角」が生えていたかどうかは未確認。大失敗。




上に門墩上の動物についての仮説を書いておきました。ならば、次の門環(メンファン)・門鈸(メンボー)の模様の動物は何?

個人的には、獅子かな・・・なんて、ぱっと見て思ってしまったのですが・・・よくよく見ていると獅子ではないような気もします・・・簡単に結論を出してしまうのは、いかがなものでしょうか。


先に龍には九匹の子供がいたという話を挙げましたが、龍には十四匹の子供がいたという説もあるそうです。


その中の「獣〇」※という動物について、「形は獅子に似、邪気を好んで食べるので、門の取っ手に使われている」と明・陸容『菽園雑記』には書かれており、ひょっとするとこれかも・・・などと思ったりもしてしまいます。ただし、獣〇の場合、龍の子供なのでその頭には「角(つの)」があるわけで、角がない場合は、やはり獅子だったということも。また、先にあげた龍の子供「椒図」も門環などの模様に使われるので注意が必要です。
※「〇」の部分には「虫偏に勿」という漢字が入ります(読み方は現在調査中)。「虫偏+勿」の代わりに「吻」を使い、「獣吻」と書き表しているものがあり、その場合は「ショウウエン・じゅうふん」と読みます。


実際には門環の顔として上の三種類以外の生き物の顔も使われているので注意が必要ですが、ここでは取りあえず獅子か椒図か獣〇かを見分ける目安として、次の三点を挙げてみました。お役に立てばうれしいです。


一つ目・・・角(つの)の有無(龍関連の模様の有無も)。二つ目・・・顔が獅子に似ているかどうか。3点目・・・巻貝状(渦巻き状・円環状)のものが付属しているかどうか。



次の引用は明・陸容『菽園雑記』第二巻からのものですが、引用中に「椒図」と「獣〇」に関する記述があります。


“古諸器物異名:瑄贔,其形似龜,性好負重,故用載石碑。螭〇,其形似獸,性好望,故立屋角上。徙牢,其形似龍而小,性吼叫,有神力,故懸於鍾上。憲章,其形似獸,有威性,好囚,故立於獄門上。饕餮,性好水,故立橋頭。蟋蜴,形似獸,鬼頭,性好腥,故用於刀柄上。䘎𧊲,其形似龍,性好風雨,故用於殿脊上。螭虎,其形似龍,性好文采,故立於碑文上。金貌,其形似獅,性好火煙,故立於香爐蓋上。椒圖,其形似螺螄,性好閉口,故立於門上,今呼鼓丁非也。虭蛥,其形似龍而小,性好立險,故立於護朽上。鼇魚,其形似龍,好吞火,故立於屋脊上。獸〇,其形似獅子,性好食陰邪,故立門環上。金吾,其形似美人,首魚,尾有兩翼,其性通靈,不睡,故用巡警。・・・”


龍の子供「椒図」

(上の画像は、中華古玩網よりお借りしました。)



ついでと言ってはなんですが、上の引用中のはじめに登場する「瑄贔(シュエンビー)」は「贔屓」(ビーシ、日本語でヒイキ)とも呼ばれ、亀によく似た神獣で、石碑を背負った姿を見かけたことのある方も多いのではないでしょうか。「贔屓の引き倒し」という言葉はここから出ているそうです。※「贔屓(ひいき)」は別名「覇下(はか)」とも呼ばれています。


なお、龍の生んだ子供たちについての記述は、上に挙げた明の陸容『菽園雑記』の他にやはり明の李東陽『懐麓堂集』や、楊慎『升庵外集』などに見られます。



門墩(メンドン)研究家・岩本公夫さんのウェブ版『中国の門墩』をご覧ください。
「第一部 北京市編」の「第2章模様」中「第3節 模様の番外」で龍生九子に触れており、勉強になりました。https://mendun.jimdofree.com/



さらに南へ。



こちらは昔、妓院(妓楼)だった建物。

朱茅胡同9号院。


角度を変えて。



名称は「聚寶茶室」。「茶室」とあるので等級は二級です。

大切に保存されているのがわかります。


玄関の上に刻まれた「福禄」という文字。

保存されているものたちは、いわば歴史の無言の証言者。もちろん、非力なわたしですが、熱く静かに耳を傾けられたらいいなぁ、と思っています。



玄関を入って正面二階部分。

中庭を囲むように手摺りに沿って部屋が並んでいるのがわかります。
妓院だった当時の面影、垂花木眉などの飾りも大切に遺されていました。



北側。



南側。



玄関の上にも部屋があったのですが、ここが当時からのものかは不明。


今回わたしが目にしたこの胡同における妓院数などを書いておきますと次のとおりです。


民国18年(1929)の統計によると、この胡同には、二等妓院(茶室)が12軒、三等妓院(下処)が2軒あったことがわかります。妓院名称記載なし。(麦倩曽『北京娼妓調査』《社会学界》第5巻、1931年6月)。


時代がくだって昭和13年(1938)10月23日発行、安藤徳器著『北支那文化便覧』(生活社刊)を見ると、この胡同には、2軒の二等妓院(茶室)の記録があり、名称は、「銀香」「永和」となっています。住所番地の記載なし。


さらにくだって、昭和16年(1941)11月20日発行『北京案内記』(新民印書館刊)では、8軒の二等妓院が記録されていました。名称記載なし。※参考にしたのは、昭和17年3月1日8版。数字の出所は「北京特別市外二区稽徴所,民国30年2月現在」となっていました。


もう一例。
2007年6月,肖复興『八大胡同捌章』(作家出版社)は、新中国成立一年前の1948年の記録として、次の17軒の妓院名と住所番号を掲げています。番号は1948年当時のものである点にご注意ください。


なお、肖复興『八大胡同捌章』には、1949年の記録(新中国成立以前のもの)の記載もあり、1948年の記録にある妓楼名で1949年の記録に残ったものと、新たな妓楼名が書かれています。この点に関しては、回を改めて紹介させていただきます。


1号院、忠福院。
2号院、富貴堂。
3号院、清華院。
4号院、無名。
7号院、銀香茶室。
9号院、春香院。
10号院、艶福茶室。
11号院、永安下処。
12号院、華蘭楼。
13号院、魁順下処。
20号院、寶華下処。
21号院、永楽茶室。
22号院、同鑫院。
28号院、華鳳院。
29号院、永和茶室。
30号院、双喜下処。
31号院、徳福茶室。
※7号院と29号院の妓楼名は、上の『北支那文化便覧』にも見られたもの。


次回に続きます。

×

非ログインユーザーとして返信する