北京·胡同窯変

北京、胡同散歩が楽しい。足の向くまま気の向くままに北京の胡同を歩いています。旧「北京·胡同窯変」もご覧いただけたらうれしいです。https://blog.goo.ne.jp/hutongyaobian

第238回 北京・紅燈幻影《百順胡同 その三》増補版

さらに西方向へ進むと、玄関両脇に縦長の大きな石が置かれたお宅がありました。




この飾りの施された大きな石はなんでしょうか。




「これは何だろうな?」
と、手で触れたり、叩いてみたりしたのですが、わかりません。


道行く人に訊いてみました。
その中には、居民委員会の事務所にいらっしゃった方もいたにはいたのですが。。。


残念無念。この石についてご存知の方はおられず、只今調査中なのであります。


この石のことはひとまずおいて、こちらは百順胡同55号院。



こちらは京劇の役者、陳徳霖(チェンドーリン。1862-1930)さんが暮らしていたお宅です。


陳さんは“青衣(チンイー)”役で、その道の第一人者として、“青衣泰斗”と謳われている方。女形で有名な王瑶卿さんや梅蘭芳もこちらからその芸を学んだとか。


ちなみに、青衣とは、貞女、烈婦で、女形が演じ、髪を長く垂らし、裙子(チュンズ。
スカート)をはき、うたを聴かせます。同じくうたを聴かせる男役の老生(ラオション)
と京劇の双璧であるそうです。「芝居を聴く」すなわち「聴戯(ティンシー)」という
言葉があるように、京劇鑑賞の主眼はうたを聴くことにあるといわれていますが、まさに「青衣」や「老生」という役柄は京劇のシンボル的な存在といってもよいのかもしれません。


おじゃましてみたいと思います。



正面の壁が影壁(インビー)の役割を果たしています。



左折すると、建増しされた建物。



建増し、改築などはされていますが、綺麗に整頓された中庭。



中庭には、鳥籠の中の小鳥の爽やかな鳴き声。



東側。


小鳥の爽やかな鳴き声をあとに、さらに西方向へ。





こちらは36号院。



この36号院は、“老生(ラオション)”役として著名な京劇の役者、程長庚(チョンチャン
ゴン。1811-1880)さんが暮らしていたお宅。


程長庚さんは、アヘン戦争後における、四大徽班の一つ“三慶班”の首席老生ならび
班主をつとめた方。


“老生”とは、忠臣、烈士、学者、長老といった役柄ですが、この役は京劇の中で最上位に置かれているそうで、程さんは、その道の第一人者として“老生泰斗”と謳われています。


ちなみに、三慶班とは、乾隆帝八十歳(1790年)を祝賀するために、江南地方は安徽省から上京した劇団の一つ。四大徽班とは、当時上京した劇団の中でもとりわけ有名な、三慶班、四喜班、和春班、春台班の四つの劇団を指しています。


晩清の絵師、沈蓉圃作『同光十三絶』に描かれた程長庚

前列左から三番目が老生役の程長庚さん。
『同光十三絶』に関するより詳しい説明は、「第232回 北京・紅燈幻影《胭脂胡同》」
をご覧ください。



急ぎ足になってしまいましたが、いよいよこの胡同の西端に到着です。


次の写真、右に行くと、小百順胡同。そしてその途中には大百順胡同の東口があり、左側に見える路地は大百順胡同の南口です。




次の写真は、大百順胡同の南口の手前のお宅。




門牌は百順胡同40号院。



ここ40号院には、京劇の役者、俞菊笙(ユィジゥション。1838-1914)さんと俞振庭(ユィヂェンティン。1879-1939)さんのお二人が暮らしていました。


お二人は親子そろって“武生(ウーション)”役で著名です。
ちなみに、武生とは、武将、勇士など、武勇に秀でた人物の役。老武生を除き、一般的に鬚はつけず、ただ勇気凛々、颯爽とした扮装をしています。


理想的な武生としては歌も達者でなくてはなりませんが、この役の見どころはその立ち廻りにあり、武芸の型の美を観客にいかに見せるかにあるそうです。


なお、民国初年、俞振庭さんはこの邸において京劇の劇団“斌慶社科班”を設立し、多くの役者さんを養成したそうです。


おじゃましてみました。



かなり奥が深そうな感じですが。。。



ご覧のように左右の建物は後年増築されたもののようで、中庭はもともとはもっと広かったのではないかと思われます。




増改築された内部は思ったより複雑で、途中で方向を見失ってしまったような状態で、上の写真の場所から次の写真の場所までどのように歩いたものやら。。。







行き止まりなので、違うコース。



上の写真の建物などは昔のままではないか。。。



。。。と思いながら狭い通路を行くと、目の前に明らかに後年新しく建増しされた建物。



かと思いきや、新しく建増しされた建物のすぐ脇には二層式の当時の面影を残す建物が姿を現します。



上にご覧いただいた二層式の建物の前の通路。
通路奥の二層式の建物にも当時の面影を残しているのでは、と思われる垂花木楣を見ることが出来ます。



先に、民国初年、俞振庭さんがこの邸において京劇の劇団“斌慶社科班”を設立し、多くの役者さんを養成したことを書きました。


わたしの思い過ごしでないならば、当時は広かったであろう、その中庭に数棟残る、当時の面影を今に伝える二層の建物を眺めていると、「なるほどな」、確かに昔京劇を学んでいた多くの生徒さんたちがここにはいたの
だという実感とともに、俞振庭さんの指導の下、日々熱心に稽古に励む生徒さんたちの姿を思い描くことが出来たことは思いがけない収穫でした。
なお、胡同関係の本によると、かつてこの邸内には花壇があり、月亮門もあったそうです。



【増補】
日本占領時代に発行された資料を見ると、この胡同内には当時次のような日本関係の店舗などがあったことが分かりました。ただし、番地が現在のものと一致するかは未確認。


永昌商会(海産物、食料雑貨卸、白米など)・・・百順胡同28号
日支洋行(食料品雑貨)・・・百順胡同43号


梅月楼(料理屋)・・・百順胡同32号
松竹館(同上)・・・百順胡同40号
※この場合の料理屋とは日本の三業の一つ。


北京朝鮮料理屋(北京同業組合聯合会所属組合)
会員数・・・16
番地・・・・百順胡同32号
(2022年7月11日増補)

×

非ログインユーザーとして返信する